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ゲルマン食物談義 - 山本峰雄の「滞欧雑記帳」 (1939) より

ON GERMANIC FOOD
BY Mineo Yamamoto

This is part of a serial essay my father contributed to an aviation journal soon after he came back from Germany, via the USA, on the eve of Hitler's invasion of Poland. My friend named Shohei Shintani was kind enough to manually transcribe the 75-year-old articles for this website. (The letter-count reached 120,000.) We just thought some of you might want to apply your translation aid to the Japanese text provided here to know how a Japanese individual viewed the bilateral relations between Germany and Japan under the Axis Alliance. This has somehow reminded me all anew that one shouldn't speak like a historian unless he is actually in the most despicable occupation on earth.



ベルリン街頭の八百屋
日本では昔から食物の話をする事は、卑しい事と教えられていた。海山の幸豊かな我国では、明治以来の交通機関の発達に依って、事実上国民が飢餓に迫ると云う事は一度も起らなかったのであるから、深刻に食糧問題を考える必要がなかったのは当然である。食物に対する欲望も美味いものを摂る事であって、如何にして食物を手に入れ、一定量の食物から如何にして最大の栄養を摂るかと云う問題ではなかった。人を饗応する時は必要以上の皿数を揃え、客は箸を付けない皿を残すのが礼儀であった。支那事変勃発後一年、未だ我国の食糧問題が今日程やかましい問題にならなかった当時、恵まれた我国を出て、ゲルマンの国に旅装を解くと、其の日から食物の問題が我々の頭を悩まし始めたのである。そして彼等の食物に対する態度を観て、我国のそれと比較して感慨無量なものがあったのである。
ドイツの各地を廻って見ると、其の地味の痩せている事は驚くべきものがある。一望の原野は全て白い砂であって、厚さ数ミリから10数ミリの黒土が之を覆っているに過ぎない。樹木や草は根を下に広げる代わりに横に伸ばしているのである。それでもベルリン附近の湖沼地帯や各河川の沿岸はまだよい方であって、殊にベルリン南方約90キロ附近のスプレーワルトの附近の湖沼地帯は昔から有名な農耕地で、今でも此処ばかりは昔ながらに農業を営み、独特の風俗を遺している。
地味が此の様に痩せている上に、膨大なる軍隊とその背景を護る大規模な工業とが控えていて、労力の不足は著しいものがある。今次の大戦前既に98個師団の常備国防軍を備え、其の外に莫大な数に昇る親衛隊、突撃隊等の党の軍隊がある訳である。重軽工業に従事する人員は1936年に既に795万人に達していた。また1938年のナチス党の統計を見ると、全ドイツの労働者18,045,601人のうち、農業労働者は681,812人に過ぎない状態であって、1938年には12万人の農業労働者を外国から入れている状況である。之等の数字はドイツの食糧問題を雄弁に物語っているものである。ナチス政権樹立直後から行われた第1次四カ年計画に、其の主要目標として失業者救済と共に農村復興が取上げられ、第2次四カ年計画の主題目たる国防工業振興の基礎を据える事が計画されたのは当然であり、また農産物特に麦の収穫時はヒトラーユーゲント、軍隊及び有志者が農夫の手伝いに出る原因をも諒解する事が出来るであろう。
斯くしてドイツはナチス政権樹立以来鋭意農村復興、労働奉仕団に依る荒蕪地開拓、食糧生産工業の振興、漁業の奨励を行ったのであるが、然かも今日でも其の食糧問題は仲々重大なものである。 1937年ドイツは食糧品のみ20億4500万マルク大量を輸入し、中でも植物性食料品は11億3500万マルクを輸入しているのである。此の数字は全商品の輸入額の37.4パーセント及び20.7パーセントに相当するものである。
ドイツがバルカン、ポーランド、デンマーク、オランダ、フランス等に伸びて行く一つの原因は、石油や鉄鉱、ボーキサイトの資源を求める事も重要な原因ではあるが、其の食糧問題解決の為でもあろう。ドイツの周囲に張り巡らされた包囲陣を突破して其の目的を達する為には、厖大な航空工業が必要となって来たのである。而して其の厖大な所謂生活圏(Lebenstraum)を守る為に更に大なる軍隊と工業力を必要とし、之が更に大量の軍需資源と食糧を必要とするのである。斯くして伸びる国家は外に向って発展して止まないのであろう。
私が一昨年の11月の末、ドイツの冬も酣(たけなわ)とならんとするベルリンにドイツの第一歩を印した時は、此の北国には、冬のたくましく冷厳な息吹がすさんでいた。木々の葉は落ちて、一望蕭條(しょうじょう)たるベルリンには、既に生の野菜の一葉も見られなかった。僅かに赤い茎と黄色い葉を持った蕗に似たRhabarberの束が、八百屋の軒に凋(しお)れた姿を曝していたのである。八百屋の平たい桶の中には、黄色い皮膚の上に虫食いの斑点のある枇杷の実位の大きさのリンゴが、わびしく飾られていた。此の憐れむべき果物がリンゴである事を知ったのは、大分後の事であった。此の二つの生野菜は、何れも其の儘食べられない事は言う迄もない。苦味のあるラバルベルは砂糖で煮てKompottとし、リンゴはおろしでおろして、果物の代りに食後に食べるのである。
レストランに行って野菜サラダを注文すると、生サラダの代りに、必ずインゲン豆とセロリの酢漬けが運ばれて来た。
冬の最中にコロラドのセロリや、カリフォルニアのメロンを楽しめるアメリカからドイツに入った私は、こんな状態で果して健康が保たれるかどうかを危み、昔山の中のスキー宿に越冬して壊血病で死んで行った後輩の事等を思い浮べて暗い気持になり、冬になっても山東白菜や胡瓜等の生物が食べられる母国を思起して、其の天恵の豊かな事に感謝せずにはいられなかったのである。
然し長い此の様な忍従の冬が終って、春がきざして先ずイタリアやオランダやバルカン方面から野菜や果物が入る頃になると、全く蘇生の思いがするのである。五月に入ると天地の春と共にホウレン草の走りがバルカン方面から市場に表われ、ハンガリーやオランダからは夫々サラダ菜とチシャが齎(もたら)され、更にオランダからは廿日大根と胡瓜が運ばれる。イタリアからは桜桃が華やかな姿を現して、長い冬をバナナで過した果物党を喜ばすのである。斯くしてドイツ産のアスパラガス、ホウレン草、アブラ菜等が砂地に育った清潔な味覚をそそるのである。五月も末となるとスモモや巴(は)旦(たん)杏(きょう)(トガリスモモ)が現れ、次いでドイツの桜桃や苺が顔を出し、八百屋の店頭は華やかさを加え、街頭に屋台店を出している果物屋も其の数を増して来る。桜桃の実る並木道をドライブして、桜桃を口に五月の風を切って緑の平野を走るのも独特の楽しみであるし、ビアホールに五月大根(Mai-Rettich)の味覚を楽しむのも興趣の深いものである。葉ごとに土を付けた五月大根を、テーブルを縫って売歩く少女から求めて皮を剥き、薄く切って鹽(しお)を振り水が出るのを待つ間も五月の野菜は楽しめるものである。之がビールのほろ苦さと調和する時、バイエルの春を想起させるのである。 苺はドイツのものは地味の痩せた為か余り大粒ではないし、味も感心しないが、然かも高級な果物に属するのである。日本の苺の大きさと艶は、ドイツ人を驚倒させずにはおかないであろう。苺(Erdbeere)の代りに大衆的のBeereとしては、すぐり(Stachelbeere)、えぞいちご(Himmbeere)、あかすぐり(Johannisbeere)、くろまめの果(Blaubeere)等とおよそ大部分の日本人の口には合わないげて物が存在する。我々は子供の時代からすぐりはおもちゃにして遊ぶ果実であると思いならわされているし、くろまめの果やあかすぐり等は日本の都会の人は見た事もないであろう。食べると口中紫色になるくろまめの果等は特に有難くないものである。森の民族ゲルマンの異色ある特徴が之等のBeereに表われている様である。然しアメリカ等でも之等の愛すべき小粒のBeereは、若い人達の一部に人気があるそうであるから、北国の果実として古くから人類に親しまれた者共であるかも知れない。
春になるとApfelsineもイタリアやスペインからドイツの市場に頻繁に顔を出す。上質品はシリア当りから遥々地中海、大西洋、北海を渡ってドイツに運ばれるらしいが、之等は市場には姿を現さない。Apfelsineはドイツ語の辞書には「くねんぼ」と訳されているが、日本のくねんぼでは無くて全くオレンジの一種である。然かもBlutapfelsineと称する内容の赤いものもあって我々には珍しい。
森の民族ゲルマンがあらゆる野草とその果を色々な形で食用に供しているにも拘らず、ドイツの森の中に多い蕨(わらび)を食用する方法を知らないのは一寸不思議である。此の点では我々は一枚上である。
ドイツの秋の果物としてはリンゴがあるが、之は其の香りと味覚と大きさに於て日本や満州のものと比較すべくもない。イタリア、南仏、スペイン、アフリカに産するミカンもドイツ迄は仲々行渡らない。たとえドイツ迄来たとしても種子の多いミカンは本場の日本人の口には合わないのだ。日本から苗を移植したものとしては此の外にKaki(柿)がある。ドイツには入らないからドイツ人は其の存在すら知らない。 ジャガイモは四季を通じてドイツの食卓には欠くべからざる食物であり、我々の米に相当するものである事は誰でも知っている事である。貴賎を問わない此の食物は、ドイツの気候と地味に適している様である。5,6月の交(変わり目)には新ジャガイモがドイツ人を喜ばせる。大きな器に盛られて食卓をまわされるSchwenk-kartoffel等に味覚を感ずる様になれば、永久にジャガイモは嫌いにならないであろう。 ドイツの材料で野菜以上に貧弱なものは魚である。不味いせいもあるし、魚の料理法を知らない事もあるが、一般に魚を好まない。政府は食糧問題解決の一助として魚を食べる事を推奨している。日本で言う所謂「文化映画」によって漁業の実況を映し、魚の化学的成分と栄養を紹介している。此の映画に依ると世界中で最も魚を食べる国民は言う迄も無く日本であって1年1人当たり52キロ余、次はイギリスであって25キロ、之に反してドイツは12.5キロに過ぎない。然かも海の幸は無尽蔵であり、その栄養も多いと云うのであるが、日本の魚は味に於て、栄養に於て遥かに北海の魚に比して優れていると言う重要な点は説明が抜けていた。
淡水産の魚としてドイツの食膳に最も普通に上るものは、云う迄も無く鯉である。ベルリン近傍からマルク、ボンメルンの地方の湖沼地には鯉は無尽蔵である。日本と同様鯉はガラス張りの箱の中に生かしてある。魚を専門に販売している店は無いが、肉屋や食料品店にいつでも置いてあるのは鯉である。フランスに行くと鯉は高級な魚であるらしいが、ドイツでは余り多過ぎて人にも珍重されない。淡水産の魚で鯉と共によく引合いに出されるのはヘヒト(Hecht)である。「鯉の中のヘヒト」等と云う諺もある。鯉と共にドイツの太公望狙われる魚である。鰻もドイツの湖沼地に多いが、料理の方法は鯉やヘヒトと同様に油で揚げるか、或はAal grunと称してボイルしてマヨネーズで味わう。蒲焼等と云う天下一品の料理法を知っているものは1人もいない。
山間には鱒(ます)がとれる。ラインの上流マジノ線の附近の渓流等には鱒が多い。変ったものとしてはザリガニ(Krebse)が賞味される。形から云っても我々には好意が持てない。 海の魚は舌鰈(Seezunge)や赤舌鰈(Rotzunge)が最も愛好される。日本の舌平目と同じ様な形をしている。之等はから揚げに限られているが、我々にも之なら満足出来る。先ずドイツの魚の王者と考えてよいだろう。鰈(Steinbutt)もドイツでは珍重されているが、北海道の大物の鰈と同じく大味である。北国の魚らしいものはオランダのニシン、東海の鱈(Dorsch)、アイスランドで取れる鮭、鱈(Kabeljan)から、Schellfisch(鱈の一種)、Bratschollen(ヒラメ)Blei(鯛の一種)等が北海から東海から、或はアイスランドから入って来る。
スズキの類はRotbarschと云う海産のものは五月の魚として都会に入って来る。ボーデン湖にもBarschが取れる。ところでBarschと云う字は不味と云う事だから、日本産のスズキ等を考えたら大違いであろう。
其の他ドイツの魚としてはとげうお(Zauder)、鰈の一種Scholle等も普通のものである。
イセエビやテナガエビ等と云うものはドイツでは最も高級なもので、一流のレストランに行かなくては姿もおがめない。捕鯨は最近ドイツが盛んに捕鯨船を作って、南氷洋に進出し始めたのであるが、之は食料問題と云うよりも、石鹸等を作る油脂原料を獲るのが目的である。
魚が一般に不味くて国民の間に其の調理法の知識が欠けている為に魚の需要が少ないので、大部分の魚は魚粉と化して貯蔵して不時に備えられるのである。
鶏卵はバターや珈琲と共に、ドイツの日常生活に最も不足している食糧品である。ベルリン等では一週間に2個の鶏卵が手に入ればよい方である。之もドイツ産はA,B,C等の品種に区別され、外国産はルーマニア、デンマーク等から入る。何れも一つ一つの卵に丁寧に印が押してあって、一目して判る様になっている。「私の家には卵が20個ある」等と云って人に自慢するのも、笑えない実話である。然し田舎に行くと、至る所に鶏が飼ってあって鶏卵は豊富である。片田舎のレストラン等で食事をすると、スープには鶏卵を二つも落してある。こう云う田舎では他の物資も豊富である。春のきざし始める頃の復活祭のお祭りには、鶏卵はつきものである。赤く色をつけた卵を部屋の中にかくして、子供は之を探すのに大童である。復活祭の菓子等も卵の形をしたものが多い。此の頃に白樺が芽を出して佐保姫(春の女神)の駕近きを思わせるのだ。田舎では門口に新芽の出たばかりの白樺の枝を立てる。ドイツの子供は復活祭と云えば卵を思い出すのである。
魚と違ってドイツの肉類は、其の種類が豊富であり、其の利用法も徹底している。ドイツの原野には野生の鹿や兎が実に豊富である。森の近くに自動車を止めて休んでいると鹿に会う事もあるし、夜は自動車道路に鹿の眼が碧く光っているのを屢(しばしば)見かける。自動車道路の標識に緑地に白く鹿の形を書いて、其の下に500メートルと書いてあれば、500メートル先に鹿の通う路がある事を示しているのだ。
此の標識が実に多い。野猪の通路にも同じ様な標識が立っている。野兎はベルリンの郊外に行けば至る所に姿を見かける。之等の可憐な動物がよく保護されている事は美しい限りである。
然し冬になると一定量を捕獲するらしく、鹿や兎や時には猪が肉屋の店頭を飾っているのは壮観でもあるし、心強くもあり、師走の東京の山鯨を思い出すのである。ポツダムの鹿料理等、通のかよう料理である。之等の野獣(Wild)の外に、野鳥はガチョウ、鴨等ドイツの特産であって、旅人の味覚をそそるものである。鶏料理は敢て他奇はない。ミルクで飼った肥育雌鶏を葡萄の枝で炙ると云う、フランスの様な雅致のある料理は無いが、ガラスの円筒形の箱の中央に立てた金串に雛鳥をさして、階段的に温度を調整する自動電熱装置で炙るドイツ式のやり方がある。
ソーセージ(Wurst)に至ってはドイツの独壇場であって、其の種類の豊富な事と味のよい事は、他の追随を許さないものがある。我々にもなじみの深いウインナー・ソーセージの様なものからBock-wurst,Dampfwurst,さてはニュルンベルガー、レーゲンスブルガー等産地の名を冠したものから、農家手製のソーセージ迄多種多様で一々挙げる遑(いとま)もない程である。ビールとソーセージ等と連想するのはソーセージの効用を知らないもので、Kaltespeise(冷食)にはチーズと共にソーセージはつきものである。百貨店にもソーセージ部があって此処ばかりは豪華な陣容を誇っている。
ハムは煮沸ハムの他に生ハム(roher Schinken)はドイツの特産であって、アスパラガスとの取合せで、アスパラガスの出始める頃にはドイツ特選料理の部に加えられる。豚の爪の酢漬け、酢漬けキャベツ(Sauerkraut)等割合によく知られたドイツの食物の話は抜きにして、今度は薬味(Kraut)の話をしよう。
ドイツの家庭の台所には必ず薬味を入れる陶器製の壺が大抵6個一組になって、箱に入って壁に取り付けられている。それ程薬味と料理とはよく結びついている。月桂樹の葉(Lorberblatt)は肉を料理する時は必ず入れる。豚の焼肉にはNelkenを、肉桂(Zimmt)はミルクや米飯に、肉荳蒄(にくづく)(Muskat)は馬鈴薯等に、葛縷子(カルシ)(Kummel)はキャベツに、丁香の実(Gewurzkerne)は肉や魚の料理に、パプリカ(Paprika)は牛肉やドイツ特有のグーラシュの料理に、更にガチョウ焼肉にはタケジャコウソウ(Thymian)を入れる。また以上の様に乾燥した薬味でなく、生のままの草としては洋芹(Petersilie)をサラダや魚に加える。更に蒔蘿(イノンド)(Dill)は生サラダや胡瓜サラダに加え、またザリガニ等の臭みを抜くのに之を加えて茹でる事は、藤原銀次郎氏の「実業人の気持」の中に見えている通りである。またルリヂサ(Boretsch)は胡瓜サラダに、ヤマヨモギ(Beifuss)や玟欄(マジョラム)(Majoran)は再びガチョウの料理に加えられシャク(Kerbel)はスープの味を出すと云った具合である。気のきかない女をつかまえてdumme Gaus(馬鹿なガチョウ)等と云うが、ドイツのガチョウ料理は仲々丁重な取扱いを受けている。之等の薬味のある物は日本でも薬屋で売っている程であるから、高級な西洋料理屋や味覚を追う人々の中には、既に充分知っておられる人もあろう。
飲料の方はリンゴ汁や各種の鉱泉水が下戸の飲料として楽しまれているが、上戸の飲料は実に豊富である。ミュンヘンビールやピルスナービールは今更云う迄もないが、之等にも勿論種類が多く、またドイツの各地至る所にビールの醸造所がある。三月に醸造するメルツビーヤ(Marzbier)、アルコール分の強いミュンヘンのボックビーヤ(Bockbier)等はビールの中でも上戸の好むものである。大都市から片田舎迄至る所の数知れないビアホールは、酒を飲んで楽しむ所であると同時に大衆的社交場でもある。音楽に合せて隣席同志腕を組んで民謡を歌う風景は実にほほえましい。これがミュンヘンのホーフグロイの大ホール等では特に壮観であるが、比較的小さな所でもまた其処に楽しい気分が醸し出される。客の中でピアノに自信のある婦人はキイに向って自ら民謡を弾いて聞かせ、最後には客の合唱の伴奏をやり一同の歓呼をあびて満足するのである。而して決して深く酔ってしまう事はない。 葡萄酒は辛口のモーゼル、甘口のライン等があって、フランスの葡萄酒とは異なった風味である。矢張り年によって出来、不出来があるから醸造の年を見て注文する。葡萄酒専門のレストランは、Weinstubeであって此処はビアホールと違って一段と高尚な客が集り、古典音楽を聴いてゆっくり琥珀の酒を楽しむ。
然し最も森の民族ゲルマンの情緒をしのぶ酒は各種のボーレ(Bowle)であろう。ボーレの最も普通の物は五月ボーレ(Maiboule)であって透明な甘い此の酒は五月の景物である。ドイツの森に咲く可憐なクルマバソウで作ったクルマバ草ボーレ(Waldmeisterbowle)やヘビイチゴボーレ(Walderdbeerenbowle)は野趣満々たるものがある。桃ボーレ(Phirsichbowle)になると魅力が薄いが、パイナップルボーレ(Ananasbowle)になると、いかものたるを免れない。ボーレは何れも以上の材料から作った酒に砂糖と炭酸水を加えた飲料である。
此の外にバイエル附近の山の草で作ったシュナップス(Schnaps)と云う火酒や桜桃の実で作ったキルシュワッサー(Kirschwasser)は強い酒の部である。キルシュワッサーは食後の珈琲の後で飲むのが宴会等の例である。
其の他卵黄で作ったリキュール等数々の酒があって、此の方面は仲々盛んである。 最後にバターとパンと珈琲が残った訳である。バターは満州大豆から作ったマーガリンが其の大部分を占めているが、稀には農家自製の白い半透明のBauerbutterが手に入る。見かけに依らず味は上々である。ドイツ人は一般に我々に比して多量のバターを消費するが、愈々バターが足りなければ豚油をパンに塗りつけるのである。1週間1人当り125グラムの切符制は戦争前からの話で、バターの獲得には仲々骨を折る。外国に旅行した時にバターをお土産にすると、受けた方の喜び方は筆紙に尽し難い。パンは質が悪いが不自由はしていない。
珈琲は紅毛人が欠くべからざる飲料であって、軍隊では士気を鼓舞するのに絶対必要である。之もドイツでは1週間1人当り50グラムに制限され、一般には豆が入っている珈琲を飲まされている。珈琲を楽しんで飲む事はパリ辺りと全く同じで、カフェのテラス等一杯の珈琲を2時間も楽しんで外を眺めている人もいるそうである。どうやら出揃った様であるから此の位でゲルマン食物談義を終る事としよう。ドイツ人は食物等は問題ではないとよく云っているし、また書いている。我々美食にならされた日本人も早く其の位の意気になりたいものである、と考えるのは筆者のみではあるまい。

TO BE CONTINUED TO THE LAST INSTALLMENTS OF THE SERIAL ESSAY. ·

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ゲルマン食物談義 - 山本峰雄の「滞欧雑記帳」 (1939) より | 2 comments | Create New Account
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ゲルマン食物談義 - 山本峰雄の「滞欧雑記帳」 (1939) より
Authored by: samwidge on Saturday, January 18 2014 @ 01:32 PM JST

I am extremely pleased that you posted this. Though the translation software I found did not do particularly well I learned plenty. As a result of the difficult translation, I could allow myself to look for general feel rather than the specifics of the article.

That is where the story exists for me. I learned immensely more about Germany, the people and the desperation of the era. We Americans treat Germany differently than we do Japan. Hard to describe! We are free to ask anything about Japan. There are many questions we are not allowed to ask about WWII Germany.

America remains for me the best of places but we are definitely not perfect. We fib and we are afraid of reality. You allowed me to sneak a peek at some secrets.
ゲルマン食物談義 - 山本峰雄の「滞欧雑記帳」 (1939) より
Authored by: Y.Yamamoto on Sunday, January 19 2014 @ 11:57 AM JST


Your effort to have the software translate the essay was appreciated here. But the result was something I'd feared about. As I always say a "general understanding" is no understanding.

Today there's no such thing as the authentic Japanese language because it's now 45% distorted English and 45% altered Chinese. So the translation software won't work in the J-to-E direction anymore unless the original text was very carefully composed so it's still translatable. But that does not mean the Japanese text written by my father 75 years ago must be easier for today's software to deal with. Just for one thing, we used to refer to the Republic of China as 支那 (Shina) instead of 中国 (Chugoku) as we call it today.

I got the impression that most probably what I'm working on right now (reproduction of my father's serial essay) makes no sense.

As I've also stressed recently, the implication of a historical event, or anything else for that matter, largely varies depending on who talks about whom. Some ten years ago at the height of the SARS epidemic, I took my date to the east coast of Australia for a short vacation. On the first night, we took a lobster dinner. (We shared one big crustacean between the two of us.) Soon after we got back to the hotel, she fell ill and collapsed. For the next couple of days, I had to cancel all reservations for holiday activities, and spend most of the time at the casino downstairs and the nearby clinic where she finally tested negative for Severe Acute Respiratory Syndrome. It turned out to be a case of food poisoning. All along I was quite OK. My bad luck lay with the fact that my date was an ill-fated person.

Once again, we shouldn't generalize things.