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南独の旅 PART 1 - 山本峰雄の「滞欧雑記帳」 (1939) より

TRAVELING SOUTH TO VISIT BMW AG - PART 1
BY Mineo Yamamoto

This is part of a serial essay my father contributed to an aviation journal soon after he came back from Germany, via the USA, on the eve of Hitler's invasion of Poland. My friend named Shohei Shintani was kind enough to manually transcribe the 75-year-old articles for this website. (The letter-count reached 120,000.) We just thought some of you might want to apply your translation aid to the Japanese text provided here to know how a Japanese individual viewed the bilateral relations between Germany and Japan under the Axis Alliance. This has somehow reminded me all anew that one shouldn't speak like a historian unless he is actually in the most despicable occupation on earth.


The city of Salzburg

Autobahn that connects Salzburg
and Munich

Munich headquarters of BMW
8月も半ばを過ぎると9月に行われるニュルンベルグの党大会の準備が進行し、其のプログラムも定まって日本人にも参加申込みの勧誘があったりした。党大会参加者のバッジの意匠も発表されて党大会だけは予定通り進行し、それ迄は何事も無く平和な日が続く事と思われた。消息筋を以て自任するベルリンの邦人駐在者は、党大会が終って軍隊と党員が其の隊に復帰した頃が最も危険であると説明してくれた。また或る大商社の人々は、ドイツ人の間に行われていた巷説其の儘に、戦争は絶対に無いのだから安心したらよい等とも慰めてくれた。 平和の気構えと戦争の雲行とが交錯して、人々が落付かない気分で街々を往来していた8月17日の午後4時40分、私はミュンヘン行きの特急でアンハルター駅を出発した。
旅行の目的は、航空研究所の長距離機の映画をB.M.W.会社で公開する事に在った。長距離機のフィルムは既に数回ベルリンでドイツ航空界の人々に見せていた。ベルリンに着いた翌日親友W氏の骨折りでデーレンドルフ広場のウーファー会社の試写室でやったのを最初とし、ドイツ航空省の映写室で第二回目の映写をやった。此の時は航空省技術長官ウデット将軍の智能と云われるルフト技術大佐を始め、10数人の航空省技術課の連中が集った。第3回目はドイツ航空研究所見学の際にトムゼンザールでボック教授以下20数名の所員の人々に見て貰った。第4回目はベルリンのN.S.F.K.本部で、ブランデンブルグ分区長以下の顔見知りの人々の希望に依って、本部の団員に披露した。 ミュンヘンでの公開はドイツで第5回目の映写であった。
ディーゼル機関車に曳航される我々の流線型列車は、平均時速93キロでドイツの平原を南下していた。車内はニュルンベルグの党大会の準備に向う党員が大多数を占めていた。赤い環の中にハーケンクロイツのマークを浮かした党員章を付けた人々が、或は平服で,或は党員服で乗込んでいた。中には外側に柏の環を金色に浮かした功労章を付けたアルト・ケンプファーも混っている。ベルリンからはライプチヒに停車したのみで、暮れ行く南独の平原の夕景色を眺めている内にニュルンベルグに着いて、車内は急に空席が増した。豪華な淡茶色のクッションが車内燈の光を受けて、所々にわびしく残って占められた座席からは、いびきが漏れて来た。午後11時40分、私は1カ月振りで再びミュンヘンの主駅に下り立った。タクシーを駆って指定されたホテル・フィーヤヤーレスツァイテンに旅装を解いた。
18日の朝は陽光も輝しく明けて、昨夜は静まっていたホテルに斯くも多数の人々が泊合せていたかと思われる程の人々が、食堂を賑わしていた。B.M.W.会社のK氏は朝食が終る頃を見計らってやって来て、再会の挨拶を交して今日の打合せをした。今日はB.M.W.本社の大講堂で200人主な人々を集めて、4時から映画をやる事にしてあるとの事である。そして午前中は休養して貰って昼食を終った後に、2時頃からB.M.W.の重役S氏と会って、長距離機の説明をして貰いたいとの事であった。聴講者に説明をするのはS氏の方がよいであろうとの事であったので、下手なドイツ語を自分でしゃべるよりもと思って万事委せてしまう。閑になった午前中はK氏と別れて見覚えのあるミュンヘンの街に出る。
党運動の発祥地としてのミュンヘンの町は、既に1カ月前に可成り詳しく訪ねてあるので、有名な市庁を見に行く。街行く人々はバイエル特有の服装の男女が多い。緑の帽子に鳥の羽を飾り、革のパンツを肩から吊って、無骨な毛脛を出して歩いている若い男、大きな襞をつけた肩飾りと、赤く細かい花模様のスカートを着けた少女等、昔乍(なが)らの狩猟人の風俗は、無邪気で快活で人のよいバイエルの人々の健康な顔貌に相応しい。青銅色の壁に白く古びた屋根と庇を重ね、中央に色様々な人形が廻って高らかに時を告げる大時計が掲げられている市庁舎は、ミュンヘンの昔からの名物である。市庁の前の通りは市民が溢れていた。

人の中を縫ってミュンヘン名物のエーデルワイスの押花を入れた小さな柱掛を購う。紫の地紙にアルプスの名花エーデルワイスの花三輪を押して「総統の愛花」と書いてある。私の心は急にミュンヘンの南、ヒトラー総統の山荘のあるベルヒテスガーデンや総統の遊ぶケーニヒス湖を訪れて、南山岳地帯の雄荘な景観に接して俗塵を洗いたい思いで一杯になったのである。
山の空想に浸って街を歩いていると、遥かに峨々(がが)たる山々が白雪を遥かに頂に残して、紫に淡く煙って地平線の彼方に連なっているではないか。私は早速ホテルに帰ると、クラークを捉まえて南行きの遊覧バスの順路を訊(ただ)し、出発の時間と場所等を聞き、明日のバスに座席を申込んだ。
K氏は再び私を訪ねて2人で食卓に向った。食卓には電気式蒸焼機が持込まれ、雛鳥が大きな金串に刺されてガラスの窓の中で回転し始めた。脂を余り落さない為に回転速度が調整されてある。落ちた脂は器に集めて再び上から掛ける。温度は自動的に階段状に変化する。ドイツらしい料理のやり方である。K氏は此の機械を客の前に披露する事が得意らしく、機械の説明をしながら楽しげに狐色に変化して行く鶏の肌を見守っている。彼が特許審査官であった時代に此の機械の審査を行って、特許の実施迄世話を焼いたのだと聞いて、彼が得意がるのも無理はないと思った次第である。
2時に我々はB.M.W.の白亜の本館を訪れた。1月前にニュルンベルグの飛行場から空軍のユンカース52型機で着陸した飛行場は、左手に遥かに伸びて、例に依り野外繋留の飛行機が点々として、飛行場の裾に並んでいる。重役S氏の部屋に集ったのは、K氏と之も顔見知りの若いエンジニアのH君とS氏の秘書であった。S氏は日本の田園人の如く逞しく朴訥な顔付をして、肩幅が広くてたくましい感じの人であり、K氏は太って浅黒く陽に焼けている。H君は嘗てB.M.W.のソビエトの分工場に働いた事のある現場技師者であるが、之は其の経歴に似はず、工科大学を出たばかりとも見える若く謙譲な人柄である。
S氏は既に前以て送ってあった長距離機のフィルムの英文タイトルをドイツ語に訳してタイプしたメモを揃えていた。其のメモに依ってS氏は更に技術的の細部の質問を出して私の答を書入れて行き、1時間ばかりの後に草稿が出来上って、直ちにタイピストに渡された。
午後4時に私は工場の中の大講堂に案内された。7月の暑い最中に我々は此の工場を訪れて航空発動機やオートバイや自動車の大量生産を見学し、またアラハの森林中に設けられた大規模な航空発動機の修理工場を訪れた事があるのである。私は長い見学旅行の当時を思起すのであった。
講堂の中には、既に本部工場とアラハの修理工場からの技術者200名が席を占めていた。中央演壇の下にはB.M.W.Ⅸ型発動機が置かれてあった。今日集った人々に配布された講演会のビラを渡された。日独の国旗を交叉して、長距離機の飛んだ木更津、銚子、太田、平塚のコースが書かれ「日本の偉大なる業績」と云う見出しで記録の事、其の他が詳しく書いてある。
S氏の紹介で、私は立って聴衆一同に挨拶をしなければならなかった。挨拶の初めは日本流に頭を下げ、終りにはナチス流に右手を挙げて挨拶とした。S氏が長距離機に就いて技術的の説明を行った。B.M.W.の発動機が日本に於いて営々たる研究を行って改良され、遂に驚くべき小さな燃料消費量となった点、世界記録の樹立の価値等は特に声を高くして、技師たちに訓す様に励ます様に説いた。
1時間に亘る説明が終った後で、フィルムが映写された。私にも幾度見ても懐しい映画である。故国に在る人々の懐しい顔も出る。思い出多い大森の工場の製作の経過が出る。1つの場面には突如藤田中佐の飛行服姿が大映しに現れて、私はいつもの様に再び暗い気持に捉われてしまうのであった。私がドイツで藤田中佐が行方不明になったと云う暗号の様な報知を受け取った其の時は、氷雨の降る暗い朝のベルリンの宿の一室に眼を覚ました時であった。其の日はまたドイツ軍がズデーテンに侵出して、間違えば欧州の動乱を巻起こしはしないかと人々が恐れ戦(おのの)いていた時である。ズデーテン侵入のドイツ軍の成功を祝うハーケンクロイツの長旒(ちょうりゅう)(ペナント)が家々の窓から出されて、氷雨にしとど濡れていた。
私には窓から見える此の旗さえも、暗澹たる弔旗の如くに見えたのである。故国出発の時に書いてくれた名刺の幾枚かは、未だ使わずに残っていた。麻布の緑に囲まれた料亭での送別会の時に会って、紹介の名刺を書いて貰ったのが最後であったのだ。彼は私の後から欧州に渡って、欧州の飛行大会に出場して紅毛の操縦者と輸贏(しゅえい)(勝負)を争ってみたいと云う念願を持っていたのであった。私は欧州で中佐に会える望みを、ベルリンの宿で実現出来る様な気持でさえいたのであった。思い出は遂に尽きず、私は悲しい思いに包まれて了って、午後迄の数時間を再びベッドに潜込んでしまったのであった。
思い出を巡っている内に映画が終った。S氏の挨拶で会は閉じられた。講堂を出た私は、工場内の空中殉職者記念碑の前に跪いて、国の如何を問わず航空の発達の為に身を捧げた人々に対する感謝の念を新たにしたのであった。
K君とH君と私の3人は、工場を出てS氏に別れて夕食を共にし、やがてミュンヘンの古いワインステューベにくつろいだ。何十年かを経たテーブルの並べられた古い部屋に、3人が卓をかこんで話ははずんだ。技術の話から勢い国際情勢の話に移り、ソビエトに行った経験のあるH君からソビエトの航空技術の話等を聞いてから、更に話は独ソの話に及んだ。党員章を付けたK氏は、独ソの関係はイデオロギーが異なるのみであると主張する。私は今迄ドイツ人の誰からも聞いた事の無い此の主張は最近現れたものであろうか等と考えて見たが、話の内容は少しも具体的でないので、別に深くも気にはとめなかった。
此の日から丁度4日目に独ソ不可侵条約が締結されて、我々邦人は勿論、世界を驚かしたのである。 斯くて若い我々は云いたいだけの事を云い合って、ホテルの前で別れた。
翌日早く、私は1人で停車場近くの遊覧バスの発着場でケーニヒス湖行きのバスに乗った。同車した人々は数人の突撃隊員とミュンヘンに来た遊覧客である。私は突撃隊員と共に最後部に席を取った。後部は写真を撮るには最も都合のよい位置である。
開閉式の屋根を持った我々の流線型大型バスは、ミュンヘン環状線から国営自動車道路に入って、時速70キロでザルツブルグに急いだ。ベルリン、ミュンヘン間の自動車道路とミュンヘン、ザルツブルグ間の自動車道路は、最も景色のよい自動車道路とされている。バイエルの緑の平原の中に坦々たる「白き道」が南東に伸びている。走る事1時間半にして、自動車道路の駐車場近くの谷の上に掛った橋梁の上で30分の休憩がある。我々は自動車道路の傍道に下りて、ビーチパラソルの点綴する休憩所を散策して歩いた。道路の中央の芝生は朝露を置いている。乗用車を持てる遊覧客が朝露に濡れた芝をなびかせて、高速度で我々の前を横切って行く。
再び車上の人となる。走るに従って前面と右側に峨々(がが)たる山が迫って来た。憧れの南山岳地帯の辺縁の山々である。山裾には広い緑の原野が広がって、牛が放牧されている。教会の尖塔や白い壁の中に突出た窓を設け、窓に紅白とりどりの花を植えたバイエル特有の美しい家々が、原野の中に点綴(てんてつ)している。絵の様な風景である。峯々に去来する白雲を車窓に眺め、やがて国営自動車道路最大のラストハウスであるヒーム湖畔のホテルを過ぎる。道路の両側にはホテルの建物や駐車場や、華やかなテラスやヨットハーバーが並んで、鴎の如くに帆を張ったヨットが走っている。ヒーム湖は冷たく碧黒い湖面を碧空の下に光らせている。駐車場の堤には、車を停めて湖を眺める人々が群れている。湖岸に生繁る葦の葉先にヨットの帆が滑って行く。
ヒーム湖の岸をかすめて東行する事40キロ、バートライヘンハルで国営自動車道路は終った。此処からザルツブルグは指呼の間に在る。楽聖モーツァルトを生んだ旧オーストリアの古都ザルツブルグの町並みは狭く乱れていた。何か党の催物があるらしく、ハーケンクロイツの旗が町を飾って、突撃隊員が制服で往来している。
町の中央の広場でバスを捨てて急坂を上り、セントペータース墓地に山腹に設けられた昔の王室の洞墓を訪れ、更にケーブルカーでベルグハイムに登る。ミュンヘンの都会人やドイツの農夫等雑然たる色彩の中に楽しい旅の雰囲気がかもし出される。イギリスの青年の傍若無人な駄辯が無ければ、ケーブルカーの中は更に楽しいであろう。嘗てミュンヘンのホーフブロイで我々に乾杯を強いて来たイギリスの青年の酔眼等を思い出して、祖先の拓いた国力を利用して人無きが如く横行する現代の英国人に憎悪を催したのであった。
山の上から見るザルツブルグは、ドナウの支流ザルツアッハ河の両岸を挟んで容貌魁偉な山々に囲まれた美しい町である。テラスに休んで昼食を取り、更に徒歩で裏路を下って再びバスに乗込む。


TO BE CONTINUED TO PART 2 ·

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