戦禍逃避行 PART 1 - 山本峰雄の「滞欧雑記張」 (1939) より

Friday, February 28 2014 @ 01:33 PM JST

Contributed by: Y.Yamamoto

LAST-MINUTE ESCAPE ON THE EVE OF NAZI'S INVASION OF POLAND - PART 1
BY Mineo Yamamoto

This is part of a serial essay my father contributed to an aviation journal soon after he came back from Germany, via the USA, on the eve of Hitler's invasion of Poland. My friend named Shohei Shintani was kind enough to manually transcribe the 75-year-old articles for this website. (The letter-count reached 120,000.) We just thought some of you might want to apply your translation aid to the Japanese text provided here to know how a Japanese individual viewed the bilateral relations between Germany and Japan under the Axis Alliance. This has somehow reminded me all anew that one shouldn't speak like a historian unless he is actually in the most despicable occupation on earth. You can't really talk about, let alone live your life like it's history. Another thing I was reminded is that as Gustave Flaubert observed, God is in the details.




The Port of Bergen,
Norway

Ditto

The Yasukuni-maru
anchored in the pier

Japanese evacuees in the
city of Bergen

Curious citizens looking
on the Japanese ship
明くれば8月26日。過去7カ月余を過した懐しいベルリンを去る日である。あわただしい戦塵逃避行の前夜に夢を破られた空征く爆音も未だ耳朶に消えやらぬ午前7時、私は早くも床を蹴っていた。いつもの如く白い浴槽の湯に浸って窓に映る朝の日ざしを眺めていると、昨日迄の私の生活が再び今日も始まるかの如き錯覚すら起るのである。
然し現実は浴みしている内も急ぎ足で、最後の爆発に近づきつつあるのである。朝食もそこそこに残りの書類を整理して、たった一つ残った旅行鞄と手提鞄の中に詰めていると、9時には既に労働戦線のH女史が訪ねて来る。私は数度の見学に一方ならぬ骨を折ってくれた彼女に篤く礼を述べた。それから話は日本人の引揚げの事に入って、彼女は戦争は決して起らないであろうと云う事、日本人の引揚げは独ソ不可侵条約を憤慨している為ではないか等と、繰り返して事情を訊(ただ)すのである。私は日本大使館の勧告に依って引揚げるのである旨を繰返す。日本語の出来る、そして時々は日本語の手紙を寄こした彼女は、一度は日本を訪れる機会があるだろうと、東京での再会を楽しみにしている。彼女の集めてくれた数冊の書籍と、そして見学報告書を受けて、私は彼女と別れた。私は齢50を過ぎたH女史と再び日本で会えるかと些か疑問に思いながら彼女を送出した。彼女はいつもと変わらない少し危げな足取りで、暗いアパートの階段の下に吸われて去ったのである。
10時、私は過去7カ月の間に世話になった人々に挨拶すべく家を出た。ベルリンの街はいつもと変らない表情を見せて、朝の活動は高潮に達していた。
11時、私は再び下宿に戻って、主婦とそして集って来た人とに最後の別れを告げた。同宿の人々は或はイタリアに、或はドイツの国内に旅行中で、果して靖国丸に間に合うかどうかは疑わしい。私は旅行中の友人に預った荷物を主婦に託して、主婦と共に下宿の前のタクシーを拾って、レーアター駅に向った。主婦はハンカチを出して眼を押えている。300人の日本人の世話をして来て、自ら日本人の母と称している彼女にも、斯くの如き突如の引揚げは未だ経験の無い事であったのである。
私は彼女を見るに耐えなかった。瞳を思い出深いベルリンの街路に移すと、重武装をした一隊の兵士が緊張した態度で行進して来るのにあう。平常ベルリンの街を歩いている兵士と云えば銃を持ったものはなかった。日曜に街に出て来る兵士は全てスマートな上質の服をつけて、大半が愛人とのどかな散歩を楽しんでいるのである。それでなければ軍隊輸送車の中に、鉄兜もいかめしくおさまり返って通過ぎて行くのであった。徒歩で銃を持っている部隊は始めてであった。
我々のタクシーはスプレー河をモルトケ橋で渡って、やがてレーアター駅の広場に入った。駅の右手の街路から一隊の屈強な招集兵が、手に手に旅行鞄を一つ宛提げて、二列縦隊で駅の構内に入って行く。中には40を過ぎた人々が多い。何れも黙々としてたくましい眉をあげて、人々の無言の見送りを受けている。
駅の構内は多数の軍人が右往左往して、昨日に変る風景である。切符を求めてプラットフォームに入ると、のどかな平常の風景とおよそ懸離れた情景である。軍服姿の将校を見送る家族、招集を受けた若者を励ます友人で、プラットフォームは混雑を極めている。

荷物を席に収めて再びプラットフォームに出ると、其処にはベルリン工科大学のC君が見送りに来ている。私は彼から借りた書籍を返し、後の事を頼んであわただしい一時を語っていると「アインスタイゲン」の声が掛る。私はC君と主婦とに固い握手を交して、車中の人となった。彼等は再び会う事を確信するが如く「アウフ・ウィーダーゼーエン」と呼び、帽子とハンカチを振っている。私は車の昇降口に立っていつ迄も彼等に答えた。席に帰ると遂に彼等と別れたのだと云う惜別の情が湧上ってくる。
食堂車の中は相変わらずのどかに楽しげである。ミトロパの献立は私を満足させてくれた。本物の珈琲でなくても之が最後と思えば、一入なつかしい思いがする。車窓から眺める田園の風物は一片の雲もない快晴の碧空の下に、地平線の彼方迄のどかに広がっている。
森の裾のエリカは相変わらず淡紅色のしとねを繰拡げているし、ダリヤは家々の前庭に華やかに伸びている。之が戦塵逃避の旅であろうかと自ら疑わざるを得ないのびやかな風光である。
車中で2組の同朋に遇う。1組は生後僅かに3カ月のいたいけな乳児をつれている。何れも顔見知りで、前途に不安を持つ気持は何十年の旧知の如く我々を親しませてしまった。然し此の親しい団欒はやがて現実の問題にぶつかって、我々の不安をかき立てた。此のいたいけな乳児の為のミルクをベルリンに忘れて来た事を母親が発見したのである。ベルリンに電報すべきか、或はハンブルグ到着後購入すべきか。或はベルリンに引き返してミルクを取って来るべきか、我々は判断に迷わざるを得なかったのである。2組の夫婦は特に心を悩まして色々と相談した結果、遂に2時過ぎルドウィッヒスルスト駅から彼等は引返して行ったのである。私達は彼等が無事にミルクを持って再びハンブルグに到着する様に祈った。
実は我々の次の列車は既に大変な混雑であって、座席券のなかった或る者は、列車に乗れないで残されてしまったのであった。我々は云わば第六感で、靖国丸の出帆に間に合うかどうかと心配になったのである。
ルドウィッヒスルスト駅からは愈々戦時色が濃くなって、線路の護衛に立つ突撃隊員の姿が沿道に見えるかと思うと、若い兵士を満載した貨物列車に行きあったりした。彼等は林檎の様に色艶のよい頬に微笑を浮べて、貨車の戸口から我々の列車に手を振っている。何かのんびりした風景である。
3時20分、我々の列車は恙(つつが)なくハンブルグ主駅に到着した。荷物を赤帽に託してタクシーを拾い、直ちに埠頭81番に急がせる。タクシーは例によって便々たるビール腹を抱えた老運転手に依って、ガタガタとハンブルグのうら淋しい郊外の道をエルベ河畔に向って行く。
沿道はどこも彼処(かしこ)も一面に高射砲の陣地で、之が全て擬装されて戦備既に終ったと云う形である。
30分の後、やがてエルベの河面が夕陽に光って見えて来た。81番埠頭には我々を待つ靖国丸が、黒く塗った見覚えのある姿を横付けていた。久し振りに見る故国の船、此処には故国の生活があり、故国の感情があるのだ。そして此の船はあらゆる危険を冒して我々を祖国に運んでくれるのだと思うと、私は不覚にも眼頭が熱くなる思いがしたのである。
舷梯を登れば、祖国の人々は我々をやさしく迎えてくれた。彼等の顔と動作は、彼らが祖国から直接ドイツへ運ばれたのだと云う印象を我々に与えた。事実外国で見る日本人は、何れもどこか外国的の臭いがする。顔も外国化された分子が含まれているのであるが、此の船に見る同朋は全てが日本的であった。私は一度に日本に帰った様な思いで、大きい船に特有な臭いを吸込んで見た。
私は直ちに日本人会から送って貰った荷物を受取り、部屋の割当てを事務室に聞き、次いで船倉に降りてベルリンから送った荷物をたしかめた。既に百人に近い同朋が乗船していた。大部分はベルリン駐在の人々の家族である。そして婦人子供第一主義で部屋が割当てられているから、我々男子は二等の方にまわされている。定められた部屋に降りると、此処は水面から2メートルも離れていない所である。船窓の下に水雷でも流れて来たら忽ち吹飛ばされそうに水は近く見える。
出帆の時刻を聞くと今晩午後9時であるとの事である。明日早朝から明日午前3時となり、午前零時と早まり、遂に今晩9時に変更されたのである。事態は急速に切迫しつつある事がひしひしと感ぜられる。
やがてドイツの税関が船に乗込んで来て、国外持出しのマルク紙幣の検査が始まる。大抵の人は100マルク以上の紙幣を持っているので、之を申告して封筒に収めて、正金銀行員に寄託する事となっている。
やがてハンブルグの港に夕闇が迫って、久し振りに食事の合図が聞える。懐しい日本の食事は前途45日の航海に備えて、まずしい一皿料理であった。そして同朋のみの水入らずの食卓には悲喜交々の感情が流れて、そこに何か一抹の不安な空気を醸し出した。いとしい夫をやがて戦禍に捲込まれるドイツに残す人々は、箸取る手も進まず不安な瞳を震わせているし、単身戦塵を逃れる我々さえも、靖国丸が宣戦布告にならない前に、無事に封鎖網を突破する事を祈っていたのである。
食事を終って私はデッキに出て見た。ハンブルグの町は既に灯が入って、遥かにエルベの河面に華やかな灯影が揺れている。既に靖国丸は出帆の準備に忙しい。淋しい埠頭には僅かの電燈が河風に揺れている。大部分の引揚げ同朋は集結を終って、人々は食後をデッキに出てドイツでの最後の夜を惜しむが如く語合っている。埠頭が一時静寂に帰って、幾人かの見送りの人々が電燈の影に寒い影を落している時、突如まばゆい前照燈の光が埠頭倉庫横からあらわれた。2台の大型バスに同朋と其の荷物が満載されている。一目でM会社の人々と判る。之等の人々は戦争無しと判断して、一時は引揚げを見合したのであるが、情勢刻々に切迫した為にバスを借切って、国営自動車道路を急いで来た人々である。一しきり乗船のざわめきが起った。知った顔も見える。
我々とベルリンから同乗して引返したS婦人と其の愛児は未だ顔を見せない。
9時の出帆は刻々と迫って、遂に見送り人の退船を告げるドラがあわただしく船内をゆすって来る。私は親友Y君と2人、最も高いサン・デッキに上って出帆の情景を眺めていた。我々の下の二つの甲板は引揚げる婦人と子供であふれている。埠頭から見送る夫は愛児の名を呼んで手を振っている。舷梯は上げられた。靖国丸は甲高い汽笛を吹鳴らして、一しきり起る惜別の呼声と共に徐々に埠頭を離れた。埠頭から頑張れと呼ぶ者がいるかと思うと、声を限りに父の名を呼ぶ声も聞える。
かくて靖国丸が約1メートル埠頭から離れた時、再び突如前照燈の光芒が埠頭を明るくして、1台のタクシーがあわただしくすべり込んで来た。船上の人も埠頭の人も、一斉に此の間一髪の瞬間に到着した人に歓呼の声をあげたのである。埠頭の人々は忽ち自動車をかこみ、船上では號笛がなって曳船が停止を命ぜられた。我々にはすぐに途中で引返したS君である事が判った。舷梯は再び下されて、埠頭の人々は舷梯の上に一列に並んで、荷物は手から手へと渡されて忽ち船に運び込まれ、彼の愛児も人々の手から手へ移って行った。上から見ていた我々は同朋愛の美しさに涙が出たのである。S君は夫人を船に上げると舷梯の上に立って「どうもすみませんでした」と一同に感謝して埠頭に戻り、やがてエル・ゼックスの箱を取出して安心した様に一服した。マッチの火に彼の紅潮した顔が照出された。
9時10分、靖国丸は再び曳船に曳かれて埠頭を離れた。エルベの河水を分けて闇の中で旋回して、やがて空を染めているザンクト・パウリの灯の照返しを右に見て、速度を増してエルベを下った。我々は数人の知友と喫煙室の後部のテラスに席を取っていた。私は余りにもあわただしかった今日の出発を思い返して、夜風の中にきらめくハンブルグの灯影を眺めていたのである。陰暦12日の月は空に掛って銀波をゆるがしている。Y君との話はつきない。彼の乗った列車は我々の次の列車であったが、既にダイヤは乱れて座席券がない多数の人が後の列車に残されたと云う事である。我々の出帆は実に時機を誤らなかった様な気がするのである。
エルベの流れを下る事約3時間、午前零時クックスハーフェンの漁港の光を左舷に見て、愈々北海に出る。始めての夜を軽いうねりを感じつつ眠りに入ったのであった。
翌朝眼を覚まして見ると、船は既に昨夜から非常警戒に入っているのを知る。機械水雷の見張りは船首とブリッジの両端に配置されている。船路は陸と大分離れているらしく、終日島影を見ないで北海の蒼茫たる海上を走ったのである。夜は全ての燈火を消してかくれるが如く闇を縫って、一路北へ北へと急ぐのであった。
斯くてハンブルグ出帆後1日半の後、28日の早朝、我々は一先ず危険区域を通過して、ベルゲンのフィヨルドの中に入っていた。嘗てスカンジナビアの旅に飛行機から見た様な岩山が右舷近く迫って、人無きフィヨルドは益々狭まって行く。温度は急に下り、水は寒い色を湛えて、再び北国に来た旅愁が湧くのであった。やがて遠く近く淡霧の中に小島があらわれ、緑や赤に塗った家が岩山の上に見える。
フィヨルドの中を2時間半の旅を終って待望のベルゲンに到着する。船首からは測深錘が入れられて、船は徐航しつつベルゲンの埠頭に着いたのである。 ベルゲンの港は左右に標高350メートルの山をめぐらした良港である。嘗て5月末に、私はスカンジナビアの旅を企ててフォス迄来たのであるが、遂にオスロ・ベルゲン鉄道の終駅たるベルゲンを見る機会を失って残念に思っていたのである。ところがはからずも戦禍を避けてベルゲンを見る事が出来たのは、或る意味で幸運と云ってもよいのである。
我々は昼食をすませて簡単な旅券の検査を受けた後、上陸した。埠頭から歩いて急坂を上り更に下った所がベルゲンのセンターである。此処にはズンド百貨店がある。同朋は期せずして此処に集り、之からの長い航海に備えてタオル、石鹸、歯磨等の日用品を買った。そして4階の食堂に集ったのである。此処では一先ず危険を通過ぎた安心で人々はくつろいで、休息の一時を過したのである。
ベルゲンの町は全てがイギリスの勢力範囲である事を示していた。買物はポンド貨で用が足り、カフェでのボーイにも百貨店の売子にも英語を話せる者がいた。そして物資は豊かで、人々は欧州の風雲をよそに楽しい生活を送っていた。
然し新聞は欧州の風雲益々急を告げた事を知らせ、また靖国丸の入港を大きく取扱っている。避難民130人を乗せている事や、また靖国丸のトン数まで書いていると云う始末である。
ベルゲンの漁港には靖国丸程の大汽船が入る事は如何にも珍しい事である。その為か午後になると靖国丸の繋留された岸壁には多数の市民が見物に来る様になった。彼等は靖国丸の勇姿を岸壁から見上げて去りもやらない。そして我々船客の出入を物珍しげに見物している。我々は大いに心強くなって町を闊歩した。
ベルゲンの港にはイギリスの避難船1隻とノルウェー船3隻が入っているのみで、他は漁船、帆船の類である。
夕食後は皆喫煙室に入ってラジオに聴入る。ダイアルを廻して遂にイギリスとドイツの放送をキャッチする。ヒトラーとヘンダーソンとが会談して時局収拾を行ったのであるが、ヒトラーはポーランドのコリドアと上部シレジアを要求したので、ヘンダーソンは再び本国政府と会議する為イギリスに帰ったと云う放送で、去年のチェコ問題当時を思わせるものがある。
靖国丸はストックホルムの日本公使館から命令のあり次第、直ちに出帆する事となって、船客は午後9時以後上陸禁止となり、また昼間でも汽笛を吹鳴らしたら直ちに帰船すべしと云う事となる。
靖国丸はストックホルムの日本公使館から命令のあり次第、直ちに出帆する事となって、船客は午後9時以後上陸禁止となり、また昼間でも汽笛を吹鳴らしたら直ちに帰船すべしと云う事となる。


TO BE CONTINUED TO PART 2

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