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戦禍逃避行 PART 2 - 山本峰雄の「滞欧雑記張」 (1939) より

LAST-MINUTE ESCAPE ON THE EVE OF NAZI'S INVASION OF POLAND - PART 2
BY Mineo Yamamoto

This is part of a serial essay my father contributed to an aviation journal soon after he came back from Germany, via the USA, on the eve of Hitler's invasion of Poland. My friend named Shohei Shintani was kind enough to manually transcribe the 75-year-old articles for this website. (The letter-count reached 120,000.) We just thought some of you might want to apply your translation aid to the Japanese text provided here to know how a Japanese individual viewed the bilateral relations between Germany and Japan under the Axis Alliance. This has somehow reminded me all anew that one shouldn't speak like a historian, unless he is actually in the most despicable occupation on earth. You can't really talk about, let alone live your life like it's history. Another thing I was reminded is that as Gustave Flaubert observed, God is in the details.
CONTINUED FROM PART 1


Looking down at the port
from Mt. Floyen

Ditto

A British destroyer
anchors astern the
Yasukuni-maru

Kids playing by a lake

Fellow countrymen, who
had missed the Yasukuni-
maru in Hamburg, arrived
at Bergen aboard a plane
ベルゲンに於ける第一夜は明けて、欧州の情勢は益々逼迫して来た事は、此の北欧の小港ベルゲンでもひしひしと感ぜられた。朝食後友人と船を出てベルゲンの町に散策に出る。舷梯には船客への掲示が出ている。曰く「外出は午後9時迄として午後9時迄には必ず帰船する事」また曰く「本船は遽(にわ)かに出帆する事あるべきに依り其の際は汽笛を数回連続吹鳴するを以て其の際は直ちに帰船すべし」と。
我々はベルゲンの繁華通りに出て昨日の如くズンド百貨店に入って、之からの長い航海に備えてタオルや石鹸から煙草迄様々の日用品を買い集めた。何れもアメリカ製品やイギリスからの舶来品である。
百貨店を出て坂を登り、やがてフローバーンのケーブルカーの客となって、ベルゲンの港を一望の内に収めるフロー山に登る。此処からはベルゲンの碧いフィヨルドと之を囲む美しい緑の山々とが手に取る様に眺められる。北欧の大気は飽く迄澄み渡って、港も町並も手に取り得るばかりに鮮やかに浮上っている。我が靖国丸も此処では堂々たる体躯を埠頭に横たえていた。我々はフロー山の展望台に寄って港の朝景色の美しさに時の経つのを忘れていた。やがてドイツの一青年とノルウェーの老婦人とがケーブルカーで上って来て、我々の傍で景色に見とれていた。
淡碧の遠山からふと眼を靖国丸の埠頭に落すと、いつの間にか靖国丸の後尾にはユニオンジャックの旗を翻したイギリスの一万トン級巡洋艦が、灰黒色の不気味な姿を浮べているのであった。我々は一様に何とはなく不安に襲われて、此の巡洋艦はノルウェーの沖に遊弋(ゆうよく)しつつあると伝えられるイギリス艦隊の一部が、ドイツや我々の船を監視する為に入って来たのではないかと考えたのであった。然し此の疑いはドイツの青年の説明で氷解した。此の巡洋艦はイギリスがソ連に送った軍事使節団を乗せてイギリスに帰る途中、ベルゲンに寄港したのであった。独ソ不可侵条約に依って外交的敗北を喫したジョンブルは、此の巡洋艦でイギリスに逃れるのであった。然かも此の巡洋艦から沖合に数百メートル離れた所には、ハーケンクロイツの旗を翻したドイツの貨物船が形勢を観望している。甲板の上迄ノルウェー宛の材木が積上げてある。
斯くする内に、突如港内から鋭い汽笛の音が伝わって、周囲の山に木魂をかえして来た。我々は、すは靖国丸の出港かとどよめいたのであるが、やがてイギリスの巡洋艦の右舷に白色に塗った一隻の哨戒艇が現れた。船尾には見掛けない星條旗が翻っている。アメリカ海軍の哨戒艇キャンベル号で、アメリカ財務長官モーゲンソーを運んでベルゲンに来て、今また欧州の情勢迫った為モーゲンソーとアメリカの避難民を乗せてアメリカに帰るのである。キャンベル号はやがてフィヨルドの入江に姿を没した。
風雲の前の中立国ノルウェーの港があわただしい動きを見せている事は、フロー山からの一望に依って観取されたのであった。
我々はフローレストランのテラスに入り、美しいビーチパラソルの下で池を見下して食事をとった。此処は欧州の風雲を外に、華やかに豪華な食事が待っていた。靖国丸の一品料理に慣れた我々は此の上ない栄養をとって外に出た。フロー山の散策路は松の木と樅の木の間を縫って、遥かに山のふところに入った。至る所にエリカの可憐な花が地に匍(は)っていた。そして雲に洗われた岩山の清浄な肌は、北国の強い太陽にきらきらと光っている。
遂に我々は山ふところに抱かれた小さい湖に達した。碧黒い水に積雲を浮べ、水草は灰緑色の華を静かに水面に漂わしている。岩を伝わって落葉松の森蔭に憩うと、此処には数人の可憐な子供が浴みの後にブロンドの髪をほしている。
遥かな向う岸には、一群の男女が水着姿で岩に腰を下ろして林檎を齧っている。華かな水着が冷たい水にあでやかな影を落して、人無き池畔の道を隔てた岩山の中腹には、此処にも2人の麗人が水着の上にプルオーバーをつけて、自然の寝台の上に横たわって静かに雲の徂来を眺めている。然も自然は静寂で人の声も聞かれない。我々は山一つ越えた後に斯くの如き仙境を見出して、あわただしい我々の旅や前途の不安を忘れたのであった。
再び町に降りて、今度はチーズや林檎等、航海中の食糧を買い込むと、1ポンドは既に昨日の19クローネから18クローネに下って、戦争の危機は急激に迫りつつある事を知らせる。船に帰って甲板を散策していると、檣頭(しょうとう)(マストの先)をかすめて一台のユンカース52型水上機が飛来し、夕闇迫る山々をフィヨルドの彼方に下った。ノルウェー国籍の此の飛行機は、此の切迫した北欧の空に急がしい逃避行の人々を乗せているのだろうと噂し合っていたのであった。

それから一時も経たない夕食後のスモーキングルームに、私はなつかしい旧友Yが入って来て驚きと喜びに手を取り合って躍り上ったのである。彼は高等学校の3年間を同じ部屋に起居し、リレーには私は2番に当り、彼は3番を走った仲であり、ニューヨークで会い、更にベルリンで会い、ベルリンを離れる2週間ばかり前には、毎土曜日と日曜には一緒に自動車を借りて、ベルリン郊外からハルツの山地、さてはニトブスの野原を訪ねたのであった。彼がドイツの工場見学に出る時には私の下宿に荷物を託され、此の荷物を後に残したまま、私はあわただしくベルリンを発ってしまったのである。彼は遂にドイツに残されるかと心痛していたのである。相変らず元気な彼の顔が突如スモーキングルームに現れたので、夢かとばかり驚いたのは当然であった。
彼は悠々と欧州の見学をすませてベルリンに帰って見ると既に戦時状態で、ハンブルグ行きの汽車は僅かに1日1列車となり、しかも靖国丸は既にベルゲンに到着していたのであった。北海は既に一切の船の通行が禁止されている。最後の手段として1日僅かに1本しか出ない3等列車のみの汽車に身を託してコペンハーゲンに渡り、深夜ノルウェーの国境を突破してクリスチャンセンに辿りついて、遂に旅客機を見つけて此処北欧の一角に飛んだのであった。
ベルリンは既に戒厳令下に在って、重要な建築物の上には高射砲が空を睨み、町の辻々にはサイドカーに乗った兵士が待機していると云う事であった。
我々は彼の話を聞いて、彼の為に大いに乾杯して夜の更けるを知らなかった。 翌日我々は再びY氏と共にフロー山に登った。フローレストランの前を港に臨んだ散策道を辿って、フロー山の突角に出て、此処に設けられた山小屋の側に腰を下ろして、ドイツの思い出を語合った。北緯61度の山上の大気は、一呼吸毎に健康な眠りを催さした。エリカの深々としたしとねの中に、我々は仰いで紺碧の空を眺めている内に、いつしか眠ってしまった。小1時間も眠ったであろうか。私は友の声に眼をあけると、彼は「おい、君はいびきをかいていたぞ」と笑っている。然し彼も数日来の疲れでエリカの花の中で安堵のいびきをかいていたに違いなかったのである。
斯くてベルゲンの不安と悠々たる気持の交錯した生活は1日1日と流れて行ったのである。
船中では多数の子供が政情等は外に終日甲板でさわぎ、泣いていた。良人をベルリンに残して来た婦人連は、再び欧州の風雲が収まって良人の下に帰れる事を願って、1日も長くベルゲンに停まる事を主張した。国際情勢の逼迫を知っている我々は、1日も早くベルゲンを出て戦禍を遠く大西洋に避ける事を願っていた。船内の空気は斯くて複雑になって来つつあった。
しかし国際情勢は愈々危機を増しつつあったのである。此処ベルゲンのフィヨルドの南方にはイギリスの航空母艦と艦隊が遊弋(ゆうよく)して、艦上機がフィヨルドの中に不時着陸したと云うニュース、ベルゲンフィヨルドの出口でドイツの船がイギリス艦に撃沈されたと云う浮説が町を横行している。
8月30日にはソ連は60万の軍隊を動員して北部ポーランドの国境に集中して、ドイツと共にポーランドを併呑する態勢を整え、オランダとスイスも動員を完了し、ノルウェーは海軍の動員を行って、靖国丸の附近にはノルウェーの水雷艇が頻繁に往復する様になった。イギリスは既に海軍の配備を終ったと云われる。
靖国丸は既に船腹に大日章旗を書いた。黒い船腹に鮮かな日章旗を見て、我々は祖国の国旗の下にあらゆる苦難を冒して長い北洋の航海に堪える事を誓ったのであった。サン・デッキと船首の甲板にも日章旗が取り付けられた。之等の日章旗と船尾の日章旗と、そして煙突の日本郵船のマークは、夜間照明を施して日本の船である事を示す様に設備が出来上がった。
然し問題は燃料と食糧であった。ストックホルムからは我が大使館のH書記官が単身ベルゲンに乗込んで、毎日ノルウェー当局と燃料と食糧の積込を交渉したのであったが、戦時を控えて其の希望は遂に達せられなかったのである。此の国は完全にイギリス派であり、またアメリカの勢力下にあった。1日靴を求めにとある靴店に入ると、売子の若い娘は私の靴を見て之はベルリン製であろうと云い、ヒトラーの靴は憎らしいと云って拳で靴を打つ真似をしたりした。新聞はフランス軍の写真を掲げ、フランス軍強しと宣伝している。ノルウェー当局は我々の写真機の携帯をも禁止してしまった。


TO BE CONTINUED TO PART 3 ·

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