戦禍逃避行 PART 3 - 山本峰雄の「滞欧雑記張」 (1939) より

Friday, February 28 2014 @ 03:15 PM JST

Contributed by: Y.Yamamoto

LAST-MINUTE ESCAPE ON THE EVE OF NAZI'S INVASION OF POLAND - PART 3
BY Mineo Yamamoto

This is part of a serial essay my father contributed to an aviation journal soon after he came back from Germany, via the USA, on the eve of Hitler's invasion of Poland. My friend named Shohei Shintani was kind enough to manually transcribe the 75-year-old articles for this website. (The letter-count reached 120,000.) We just thought some of you might want to apply your translation aid to the Japanese text provided here to know how a Japanese individual viewed the bilateral relations between Germany and Japan under the Axis Alliance. This has somehow reminded me all anew that one shouldn't speak like a historian, unless he is actually in the most despicable occupation on earth. You can't really talk about, let alone live your life like it's history. Another thing I was reminded is that as Gustave Flaubert observed, God is in the details.


CONTINUED FROM PART 2


Lifeboats are getting ready
on the deck

Manhattan Island
9月1日、遂にドイツ軍はポーランドに侵入し、同時に6都市がドイツの誇る空軍の翼下に蹂躙された。そして2日にはイギリスは予てから計画されていた通り60万人の児童をロンドンから退去させ、ロンドンの日本人もダブリンに逃れたのであった。
9月3日の朝、我々は朝食後スモーキングルームのラジオの前に集まって、イギリスからの放送を待っていた。
10時15分、イギリス首相チェンバレンの例に依って力の無いしゃがれ声がスピーカーに入って来た。「イギリスはドイツとポーランド問題に就いて平和的解決を計って百方努力したが、ドイツは今やポーランドに侵入するに至った。……我々は茲(ここ)に我がイギリスとドイツとが交戦状態に在る事を宣言する。……神よ我々に勝利を恵み給え。」 チェンバレンの声は悲痛其のものであった。言葉は所々とぎれて、重苦しい沈黙が彼の演説を区切っていた。戦備無きイギリスは遂に起たざるを得ないのである。
スモーキングルームは彼の一語毎に緊張を増した。遂に来るべきものは来たのだ。21年目に欧州は再び戦禍の中に入ったのである。
其の日の午後、イギリスの皇帝はチェンバレンと同じ放送を行った。
此の放送の直後、遂に靖国丸は明日正午出帆と決定した。燃料と食糧は遂に積込めなかったが、然しニューヨーク迄は何とかして航海出来るのである。

9月4日のあわただしい朝、我々船客と船員は靖国丸の船腹に書かれた日章旗の下に並んで最後の記念撮影を行った後、纜(ともづな)を解いてベルゲンの埠頭を離れた。只1人残るH書記官は、さびしい姿を埠頭の風にさらして帽子を振っている。外にはノルウェー人の二、三人が、他人事の如くうつろに我々の船を見送っているばかりであった。2時間の絵の如きフィヨルドの中の航海を終えて、午後2時半、遂に外洋に出た。遂に我々は運命を天に委ねて、戦禍の大西洋の荒波に乗出したのである。既に前檣(ぜんしょう)(フォアマスト)の上と船首の左右には浮流機雷の見張りが立って、どんよりと乳色に曇って来た空の下に荒れ狂う海面を見張っている。救命艇のカバーは全部外されて、食料品を詰めた木箱と飲料水の樽が積込まれて、風の中に不気味に待機している。船室ではボーイが救命ブイを取出して、寝台の枕下の棚にいつでも着用出来る様に用意してしまった。
出港に先立ち、H書記と事務長はベルリンのイギリス領事館に靖国丸の保護を依頼してあるので、前途は多分恙(つつが)ないと考えて安心しているのであるが、宣戦布告と共に大西洋は既に戦禍の中に突入してしまった。イギリスの1万5千トンの貨客船がイギリス北西岸より250浬(かいり)の沖に於て、ドイツ潜水艦と想像される潜水艦に依り撃沈されたと云う報が入り、次いで我々に先だってベルゲンを出たイギリスの汽船もノルウェー海岸で撃沈されたと云うニュースが入って、船内の緊張は高まって来た。無電の発信は停止されてしまった。
船はノルウェーの西岸を北上して、海は次第に荒れて来た。之から3日の最も危険な航海がどうか無事である様にと祈る気持は誰も変わらなかった。
船客乗組員は何分の通知ある迄、夜間と雖も何時にても甲板に集合出来る用意をなし置く事、集合の必要ある時はアラーム・ベルを鳴らし、汽笛は短聲6聲以上を長聲急鳴すべし外3箇条の注意書が船内に配布された。
かつて我々がニューヨークからドイツに渡る際に乗船したドイツ最大の汽船ブレーメン号がイギリスに拿捕されたと云うニュースは我々を驚かせた。ブレーメン号はI氏を乗せて8月23日欧州の風雲急なイギリスを出帆して、大西洋を南下して形勢を観望した末ニューヨークに着き、此処でイギリス、アメリカ合作の出港妨害の為に出帆が出来なかったのであるが、8月20日遂にイギリス海軍の監視を逃れて大西洋に出たのであった。
然しブレーメンがイギリスに拿捕されたと云うのは実は誤報であって、此の時ブレーメン号は大西洋の霧にかくれて、水平線上の船影におびえながら、ジグザグの航路を一路ソ連領ムルマンスクに向って逃げつつあったのである。そして9月2日には我々に先だってベルゲンを出港した哨戒艦キャンベル号を其の無電にキャッチして、之を逆用して難を免れていたのであった。
斯くて我々はドイツの潜水艦の眼を逃れんとするイギリス船とイギリス海軍の監視をくぐるドイツ船との間を航海しつつあったのである。然し我々の出帆の日からニューヨーク迄は遂に一つの船影をも大洋の中に見出す事が出来なかった。全ては北大西洋の深い霧が波頭に洗われる迄垂下がって、各自の行動をかくしてくれたのであった。
欧州の戦況ニュースは刻々と入って来た。先ずドイツの空軍の小部隊がロンドンを空襲したと云うニュースが入ったのを始めとして、イギリス空軍がハンブルグを空襲し、イギリス機がウィルヘルムスハーフェンに於て撃墜された事が判り、またフランスの空軍がラインラントを空襲したと云う事が電波に乗って伝わって来る。然しながら我々の予期したドイツ空軍の大規模なロンドン空襲も無く、地上部隊の戦闘も報ぜられないで、我々は些か拍子抜けのした思いであった。
9月5日正午には、北緯63度01分、西経5度12分の高緯度を通過して、波は愈々荒く、風はリギングを鳴らして、霧は深くなって来ていた。波頭を覆ったフェレー島沖の霧の中に、鴎が低く怒波をかすめて滑翔飛行を行っているのが、我々の唯一の慰めであった。アイスランドからの冷たい水は灰色にくすんで、唯でさえ憂鬱な避難者の心を暗くするのであった。
ある霧の深い真夜中であった。深い眠りの中に突如轟く汽笛にすはと褥(しとね)を蹴ると、船はエンジンを止めて怒涛の中に漂い始めた。キャビンの廊下を甲板に上るあわただしい足音。私は次の瞬間に船が傾き始める事を予期して、船窓の闇を見つめたであった。然し船は尚も汽笛を鳴らして、大西洋の深夜に音も無く止まっている。舷側をかむ怒涛の音と波の衝撃は私の不安をかきたてた。然し間もなく此の汽笛は霧笛信号である事に気がついて、私は独りでキャビンの闇の中に安堵の吐息をついたのであった。
然し我々は遂に危険区域を突破した。9月11日には波は収まり、デッキから甲板迄しっとりと濡らした霧も晴れて、デッキチェアの上の読書も楽になって来た。
ニューヨーク到着後の計画に話ははずんだ。ウォール街附近の料理屋でオイスターやチェリークラムを食べる計画、街角でオレンジジュースのコップを飲みほしたいと云う者、支那料理の話から遂に日本料理の話に落ついた。
怒涛が静まると、夜の甲板はまた楽しいものであった。夜は満天の星屑の下に更けて行った。懐かしいプレアッヅの神秘的な光、アル、ニール、カペラの華かな星が、我々の無事な航海を祝するかの如くである。金剛石(ダイヤモンド)の飾棚の如き星屑の下に、船は何時迄も水平線上に淡く残るアベントロートを追って、アンドロメダ座に向って、ニューヨークへニューヨークへと急ぐのであった。
9月13日、愈々ニューヨークは近づいた。参戦していないイタリアの汽船ローマ号は、白い船腹に国旗を書いて我々と挨拶を交しながら行きちがって行った。午後の一時を甲板の散歩に楽しんでいると、靖国丸の後檣(こうしょう)(後ろのマスト)に日章旗がするすると掲げられた。水平線に目を向けると、其処に4本マストの巡洋艦が我々を目がけて波を蹴って近づいて来る。そしてやがて船尾をまわって再び水平線下に消えて行った。アメリカの哨戒区域に入ったのである。
翌14日、我々は西方遥かにロングアイランドの褐色の岸が煙霧の中に光っているのを眺めて、歓呼の声を挙げたのである。アメリカ海軍の双発型哨戒用飛行船は檣頭(しょうとう)(マストの先端)の日章旗をかすめて低空飛行を行った後、遥かに飛去った。次いでコンソリデーテッド飛行艇が靖国丸の上空を旋回飛行して行った。ロングアイランドの沖にはアメリカ海軍の艦艇が10数隻投錨して、アメリカの神経過敏さを語っている。
午後2時、遂に我々はハドソン川の河口検疫所に入った。左舷はるかに「自由の女神」が波の上に聳え、マンハッタンの摩天楼は行手の空をさえぎっている。
平和な碧空に大衆飲料ペプシコーラの広告がスカイライティングに依って浮び出しつつある。
我々は遂に戦禍を脱したのである。

(終)

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