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戦禍逃避行 PART 3 - 山本峰雄の「滞欧雑記張」 (1939) より

LAST-MINUTE ESCAPE ON THE EVE OF NAZI'S INVASION OF POLAND - PART 3
BY Mineo Yamamoto

This is part of a serial essay my father contributed to an aviation journal soon after he came back from Germany, via the USA, on the eve of Hitler's invasion of Poland. My friend named Shohei Shintani was kind enough to manually transcribe the 75-year-old articles for this website. (The letter-count reached 120,000.) We just thought some of you might want to apply your translation aid to the Japanese text provided here to know how a Japanese individual viewed the bilateral relations between Germany and Japan under the Axis Alliance. This has somehow reminded me all anew that one shouldn't speak like a historian, unless he is actually in the most despicable occupation on earth. You can't really talk about, let alone live your life like it's history. Another thing I was reminded is that as Gustave Flaubert observed, God is in the details.
CONTINUED FROM PART 2


Lifeboats are getting ready
on the deck

Manhattan Island
9月1日、遂にドイツ軍はポーランドに侵入し、同時に6都市がドイツの誇る空軍の翼下に蹂躙された。そして2日にはイギリスは予てから計画されていた通り60万人の児童をロンドンから退去させ、ロンドンの日本人もダブリンに逃れたのであった。
9月3日の朝、我々は朝食後スモーキングルームのラジオの前に集まって、イギリスからの放送を待っていた。
10時15分、イギリス首相チェンバレンの例に依って力の無いしゃがれ声がスピーカーに入って来た。「イギリスはドイツとポーランド問題に就いて平和的解決を計って百方努力したが、ドイツは今やポーランドに侵入するに至った。……我々は茲(ここ)に我がイギリスとドイツとが交戦状態に在る事を宣言する。……神よ我々に勝利を恵み給え。」 チェンバレンの声は悲痛其のものであった。言葉は所々とぎれて、重苦しい沈黙が彼の演説を区切っていた。戦備無きイギリスは遂に起たざるを得ないのである。
スモーキングルームは彼の一語毎に緊張を増した。遂に来るべきものは来たのだ。21年目に欧州は再び戦禍の中に入ったのである。
其の日の午後、イギリスの皇帝はチェンバレンと同じ放送を行った。
此の放送の直後、遂に靖国丸は明日正午出帆と決定した。燃料と食糧は遂に積込めなかったが、然しニューヨーク迄は何とかして航海出来るのである。

9月4日のあわただしい朝、我々船客と船員は靖国丸の船腹に書かれた日章旗の下に並んで最後の記念撮影を行った後、纜(ともづな)を解いてベルゲンの埠頭を離れた。只1人残るH書記官は、さびしい姿を埠頭の風にさらして帽子を振っている。外にはノルウェー人の二、三人が、他人事の如くうつろに我々の船を見送っているばかりであった。2時間の絵の如きフィヨルドの中の航海を終えて、午後2時半、遂に外洋に出た。遂に我々は運命を天に委ねて、戦禍の大西洋の荒波に乗出したのである。既に前檣(ぜんしょう)(フォアマスト)の上と船首の左右には浮流機雷の見張りが立って、どんよりと乳色に曇って来た空の下に荒れ狂う海面を見張っている。救命艇のカバーは全部外されて、食料品を詰めた木箱と飲料水の樽が積込まれて、風の中に不気味に待機している。船室ではボーイが救命ブイを取出して、寝台の枕下の棚にいつでも着用出来る様に用意してしまった。
出港に先立ち、H書記と事務長はベルリンのイギリス領事館に靖国丸の保護を依頼してあるので、前途は多分恙(つつが)ないと考えて安心しているのであるが、宣戦布告と共に大西洋は既に戦禍の中に突入してしまった。イギリスの1万5千トンの貨客船がイギリス北西岸より250浬(かいり)の沖に於て、ドイツ潜水艦と想像される潜水艦に依り撃沈されたと云う報が入り、次いで我々に先だってベルゲンを出たイギリスの汽船もノルウェー海岸で撃沈されたと云うニュースが入って、船内の緊張は高まって来た。無電の発信は停止されてしまった。
船はノルウェーの西岸を北上して、海は次第に荒れて来た。之から3日の最も危険な航海がどうか無事である様にと祈る気持は誰も変わらなかった。
船客乗組員は何分の通知ある迄、夜間と雖も何時にても甲板に集合出来る用意をなし置く事、集合の必要ある時はアラーム・ベルを鳴らし、汽笛は短聲6聲以上を長聲急鳴すべし外3箇条の注意書が船内に配布された。
かつて我々がニューヨークからドイツに渡る際に乗船したドイツ最大の汽船ブレーメン号がイギリスに拿捕されたと云うニュースは我々を驚かせた。ブレーメン号はI氏を乗せて8月23日欧州の風雲急なイギリスを出帆して、大西洋を南下して形勢を観望した末ニューヨークに着き、此処でイギリス、アメリカ合作の出港妨害の為に出帆が出来なかったのであるが、8月20日遂にイギリス海軍の監視を逃れて大西洋に出たのであった。
然しブレーメンがイギリスに拿捕されたと云うのは実は誤報であって、此の時ブレーメン号は大西洋の霧にかくれて、水平線上の船影におびえながら、ジグザグの航路を一路ソ連領ムルマンスクに向って逃げつつあったのである。そして9月2日には我々に先だってベルゲンを出港した哨戒艦キャンベル号を其の無電にキャッチして、之を逆用して難を免れていたのであった。
斯くて我々はドイツの潜水艦の眼を逃れんとするイギリス船とイギリス海軍の監視をくぐるドイツ船との間を航海しつつあったのである。然し我々の出帆の日からニューヨーク迄は遂に一つの船影をも大洋の中に見出す事が出来なかった。全ては北大西洋の深い霧が波頭に洗われる迄垂下がって、各自の行動をかくしてくれたのであった。
欧州の戦況ニュースは刻々と入って来た。先ずドイツの空軍の小部隊がロンドンを空襲したと云うニュースが入ったのを始めとして、イギリス空軍がハンブルグを空襲し、イギリス機がウィルヘルムスハーフェンに於て撃墜された事が判り、またフランスの空軍がラインラントを空襲したと云う事が電波に乗って伝わって来る。然しながら我々の予期したドイツ空軍の大規模なロンドン空襲も無く、地上部隊の戦闘も報ぜられないで、我々は些か拍子抜けのした思いであった。
9月5日正午には、北緯63度01分、西経5度12分の高緯度を通過して、波は愈々荒く、風はリギングを鳴らして、霧は深くなって来ていた。波頭を覆ったフェレー島沖の霧の中に、鴎が低く怒波をかすめて滑翔飛行を行っているのが、我々の唯一の慰めであった。アイスランドからの冷たい水は灰色にくすんで、唯でさえ憂鬱な避難者の心を暗くするのであった。
ある霧の深い真夜中であった。深い眠りの中に突如轟く汽笛にすはと褥(しとね)を蹴ると、船はエンジンを止めて怒涛の中に漂い始めた。キャビンの廊下を甲板に上るあわただしい足音。私は次の瞬間に船が傾き始める事を予期して、船窓の闇を見つめたであった。然し船は尚も汽笛を鳴らして、大西洋の深夜に音も無く止まっている。舷側をかむ怒涛の音と波の衝撃は私の不安をかきたてた。然し間もなく此の汽笛は霧笛信号である事に気がついて、私は独りでキャビンの闇の中に安堵の吐息をついたのであった。
然し我々は遂に危険区域を突破した。9月11日には波は収まり、デッキから甲板迄しっとりと濡らした霧も晴れて、デッキチェアの上の読書も楽になって来た。
ニューヨーク到着後の計画に話ははずんだ。ウォール街附近の料理屋でオイスターやチェリークラムを食べる計画、街角でオレンジジュースのコップを飲みほしたいと云う者、支那料理の話から遂に日本料理の話に落ついた。
怒涛が静まると、夜の甲板はまた楽しいものであった。夜は満天の星屑の下に更けて行った。懐かしいプレアッヅの神秘的な光、アル、ニール、カペラの華かな星が、我々の無事な航海を祝するかの如くである。金剛石(ダイヤモンド)の飾棚の如き星屑の下に、船は何時迄も水平線上に淡く残るアベントロートを追って、アンドロメダ座に向って、ニューヨークへニューヨークへと急ぐのであった。
9月13日、愈々ニューヨークは近づいた。参戦していないイタリアの汽船ローマ号は、白い船腹に国旗を書いて我々と挨拶を交しながら行きちがって行った。午後の一時を甲板の散歩に楽しんでいると、靖国丸の後檣(こうしょう)(後ろのマスト)に日章旗がするすると掲げられた。水平線に目を向けると、其処に4本マストの巡洋艦が我々を目がけて波を蹴って近づいて来る。そしてやがて船尾をまわって再び水平線下に消えて行った。アメリカの哨戒区域に入ったのである。
翌14日、我々は西方遥かにロングアイランドの褐色の岸が煙霧の中に光っているのを眺めて、歓呼の声を挙げたのである。アメリカ海軍の双発型哨戒用飛行船は檣頭(しょうとう)(マストの先端)の日章旗をかすめて低空飛行を行った後、遥かに飛去った。次いでコンソリデーテッド飛行艇が靖国丸の上空を旋回飛行して行った。ロングアイランドの沖にはアメリカ海軍の艦艇が10数隻投錨して、アメリカの神経過敏さを語っている。
午後2時、遂に我々はハドソン川の河口検疫所に入った。左舷はるかに「自由の女神」が波の上に聳え、マンハッタンの摩天楼は行手の空をさえぎっている。
平和な碧空に大衆飲料ペプシコーラの広告がスカイライティングに依って浮び出しつつある。
我々は遂に戦禍を脱したのである。 · read more (1 words)
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戦禍逃避行 PART 2 - 山本峰雄の「滞欧雑記張」 (1939) より

LAST-MINUTE ESCAPE ON THE EVE OF NAZI'S INVASION OF POLAND - PART 2
BY Mineo Yamamoto

This is part of a serial essay my father contributed to an aviation journal soon after he came back from Germany, via the USA, on the eve of Hitler's invasion of Poland. My friend named Shohei Shintani was kind enough to manually transcribe the 75-year-old articles for this website. (The letter-count reached 120,000.) We just thought some of you might want to apply your translation aid to the Japanese text provided here to know how a Japanese individual viewed the bilateral relations between Germany and Japan under the Axis Alliance. This has somehow reminded me all anew that one shouldn't speak like a historian, unless he is actually in the most despicable occupation on earth. You can't really talk about, let alone live your life like it's history. Another thing I was reminded is that as Gustave Flaubert observed, God is in the details.
CONTINUED FROM PART 1


Looking down at the port
from Mt. Floyen

Ditto

A British destroyer
anchors astern the
Yasukuni-maru

Kids playing by a lake

Fellow countrymen, who
had missed the Yasukuni-
maru in Hamburg, arrived
at Bergen aboard a plane
ベルゲンに於ける第一夜は明けて、欧州の情勢は益々逼迫して来た事は、此の北欧の小港ベルゲンでもひしひしと感ぜられた。朝食後友人と船を出てベルゲンの町に散策に出る。舷梯には船客への掲示が出ている。曰く「外出は午後9時迄として午後9時迄には必ず帰船する事」また曰く「本船は遽(にわ)かに出帆する事あるべきに依り其の際は汽笛を数回連続吹鳴するを以て其の際は直ちに帰船すべし」と。
我々はベルゲンの繁華通りに出て昨日の如くズンド百貨店に入って、之からの長い航海に備えてタオルや石鹸から煙草迄様々の日用品を買い集めた。何れもアメリカ製品やイギリスからの舶来品である。
百貨店を出て坂を登り、やがてフローバーンのケーブルカーの客となって、ベルゲンの港を一望の内に収めるフロー山に登る。此処からはベルゲンの碧いフィヨルドと之を囲む美しい緑の山々とが手に取る様に眺められる。北欧の大気は飽く迄澄み渡って、港も町並も手に取り得るばかりに鮮やかに浮上っている。我が靖国丸も此処では堂々たる体躯を埠頭に横たえていた。我々はフロー山の展望台に寄って港の朝景色の美しさに時の経つのを忘れていた。やがてドイツの一青年とノルウェーの老婦人とがケーブルカーで上って来て、我々の傍で景色に見とれていた。
淡碧の遠山からふと眼を靖国丸の埠頭に落すと、いつの間にか靖国丸の後尾にはユニオンジャックの旗を翻したイギリスの一万トン級巡洋艦が、灰黒色の不気味な姿を浮べているのであった。我々は一様に何とはなく不安に襲われて、此の巡洋艦はノルウェーの沖に遊弋(ゆうよく)しつつあると伝えられるイギリス艦隊の一部が、ドイツや我々の船を監視する為に入って来たのではないかと考えたのであった。然し此の疑いはドイツの青年の説明で氷解した。此の巡洋艦はイギリスがソ連に送った軍事使節団を乗せてイギリスに帰る途中、ベルゲンに寄港したのであった。独ソ不可侵条約に依って外交的敗北を喫したジョンブルは、此の巡洋艦でイギリスに逃れるのであった。然かも此の巡洋艦から沖合に数百メートル離れた所には、ハーケンクロイツの旗を翻したドイツの貨物船が形勢を観望している。甲板の上迄ノルウェー宛の材木が積上げてある。
斯くする内に、突如港内から鋭い汽笛の音が伝わって、周囲の山に木魂をかえして来た。我々は、すは靖国丸の出港かとどよめいたのであるが、やがてイギリスの巡洋艦の右舷に白色に塗った一隻の哨戒艇が現れた。船尾には見掛けない星條旗が翻っている。アメリカ海軍の哨戒艇キャンベル号で、アメリカ財務長官モーゲンソーを運んでベルゲンに来て、今また欧州の情勢迫った為モーゲンソーとアメリカの避難民を乗せてアメリカに帰るのである。キャンベル号はやがてフィヨルドの入江に姿を没した。
風雲の前の中立国ノルウェーの港があわただしい動きを見せている事は、フロー山からの一望に依って観取されたのであった。
我々はフローレストランのテラスに入り、美しいビーチパラソルの下で池を見下して食事をとった。此処は欧州の風雲を外に、華やかに豪華な食事が待っていた。靖国丸の一品料理に慣れた我々は此の上ない栄養をとって外に出た。フロー山の散策路は松の木と樅の木の間を縫って、遥かに山のふところに入った。至る所にエリカの可憐な花が地に匍(は)っていた。そして雲に洗われた岩山の清浄な肌は、北国の強い太陽にきらきらと光っている。
遂に我々は山ふところに抱かれた小さい湖に達した。碧黒い水に積雲を浮べ、水草は灰緑色の華を静かに水面に漂わしている。岩を伝わって落葉松の森蔭に憩うと、此処には数人の可憐な子供が浴みの後にブロンドの髪をほしている。
遥かな向う岸には、一群の男女が水着姿で岩に腰を下ろして林檎を齧っている。華かな水着が冷たい水にあでやかな影を落して、人無き池畔の道を隔てた岩山の中腹には、此処にも2人の麗人が水着の上にプルオーバーをつけて、自然の寝台の上に横たわって静かに雲の徂来を眺めている。然も自然は静寂で人の声も聞かれない。我々は山一つ越えた後に斯くの如き仙境を見出して、あわただしい我々の旅や前途の不安を忘れたのであった。
再び町に降りて、今度はチーズや林檎等、航海中の食糧を買い込むと、1ポンドは既に昨日の19クローネから18クローネに下って、戦争の危機は急激に迫りつつある事を知らせる。船に帰って甲板を散策していると、檣頭(しょうとう)(マストの先)をかすめて一台のユンカース52型水上機が飛来し、夕闇迫る山々をフィヨルドの彼方に下った。ノルウェー国籍の此の飛行機は、此の切迫した北欧の空に急がしい逃避行の人々を乗せているのだろうと噂し合っていたのであった。

それから一時も経たない夕食後のスモーキングルームに、私はなつかしい旧友Yが入って来て驚きと喜びに手を取り合って躍り上ったのである。彼は高等学校の3年間を同じ部屋に起居し、リレーには私は2番に当り、彼は3番を走った仲であり、ニューヨークで会い、更にベルリンで会い、ベルリンを離れる2週間ばかり前には、毎土曜日と日曜には一緒に自動車を借りて、ベルリン郊外からハルツの山地、さてはニトブスの野原を訪ねたのであった。彼がドイツの工場見学に出る時には私の下宿に荷物を託され、此の荷物を後に残したまま、私はあわただしくベルリンを発ってしまったのである。彼は遂にドイツに残されるかと心痛していたのである。相変らず元気な彼の顔が突如スモーキングルームに現れたので、夢かとばかり驚いたのは当然であった。
彼は悠々と欧州の見学をすませてベルリンに帰って見ると既に戦時状態で、ハンブルグ行きの汽車は僅かに1日1列車となり、しかも靖国丸は既にベルゲンに到着していたのであった。北海は既に一切の船の通行が禁止されている。最後の手段として1日僅かに1本しか出ない3等列車のみの汽車に身を託してコペンハーゲンに渡り、深夜ノルウェーの国境を突破してクリスチャンセンに辿りついて、遂に旅客機を見つけて此処北欧の一角に飛んだのであった。
ベルリンは既に戒厳令下に在って、重要な建築物の上には高射砲が空を睨み、町の辻々にはサイドカーに乗った兵士が待機していると云う事であった。
我々は彼の話を聞いて、彼の為に大いに乾杯して夜の更けるを知らなかった。 翌日我々は再びY氏と共にフロー山に登った。フローレストランの前を港に臨んだ散策道を辿って、フロー山の突角に出て、此処に設けられた山小屋の側に腰を下ろして、ドイツの思い出を語合った。北緯61度の山上の大気は、一呼吸毎に健康な眠りを催さした。エリカの深々としたしとねの中に、我々は仰いで紺碧の空を眺めている内に、いつしか眠ってしまった。小1時間も眠ったであろうか。私は友の声に眼をあけると、彼は「おい、君はいびきをかいていたぞ」と笑っている。然し彼も数日来の疲れでエリカの花の中で安堵のいびきをかいていたに違いなかったのである。
斯くてベルゲンの不安と悠々たる気持の交錯した生活は1日1日と流れて行ったのである。
船中では多数の子供が政情等は外に終日甲板でさわぎ、泣いていた。良人をベルリンに残して来た婦人連は、再び欧州の風雲が収まって良人の下に帰れる事を願って、1日も長くベルゲンに停まる事を主張した。国際情勢の逼迫を知っている我々は、1日も早くベルゲンを出て戦禍を遠く大西洋に避ける事を願っていた。船内の空気は斯くて複雑になって来つつあった。
しかし国際情勢は愈々危機を増しつつあったのである。此処ベルゲンのフィヨルドの南方にはイギリスの航空母艦と艦隊が遊弋(ゆうよく)して、艦上機がフィヨルドの中に不時着陸したと云うニュース、ベルゲンフィヨルドの出口でドイツの船がイギリス艦に撃沈されたと云う浮説が町を横行している。
8月30日にはソ連は60万の軍隊を動員して北部ポーランドの国境に集中して、ドイツと共にポーランドを併呑する態勢を整え、オランダとスイスも動員を完了し、ノルウェーは海軍の動員を行って、靖国丸の附近にはノルウェーの水雷艇が頻繁に往復する様になった。イギリスは既に海軍の配備を終ったと云われる。
靖国丸は既に船腹に大日章旗を書いた。黒い船腹に鮮かな日章旗を見て、我々は祖国の国旗の下にあらゆる苦難を冒して長い北洋の航海に堪える事を誓ったのであった。サン・デッキと船首の甲板にも日章旗が取り付けられた。之等の日章旗と船尾の日章旗と、そして煙突の日本郵船のマークは、夜間照明を施して日本の船である事を示す様に設備が出来上がった。
然し問題は燃料と食糧であった。ストックホルムからは我が大使館のH書記官が単身ベルゲンに乗込んで、毎日ノルウェー当局と燃料と食糧の積込を交渉したのであったが、戦時を控えて其の希望は遂に達せられなかったのである。此の国は完全にイギリス派であり、またアメリカの勢力下にあった。1日靴を求めにとある靴店に入ると、売子の若い娘は私の靴を見て之はベルリン製であろうと云い、ヒトラーの靴は憎らしいと云って拳で靴を打つ真似をしたりした。新聞はフランス軍の写真を掲げ、フランス軍強しと宣伝している。ノルウェー当局は我々の写真機の携帯をも禁止してしまった。 · read more (6 words)
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戦禍逃避行 PART 1 - 山本峰雄の「滞欧雑記張」 (1939) より

LAST-MINUTE ESCAPE ON THE EVE OF NAZI'S INVASION OF POLAND - PART 1
BY Mineo Yamamoto

This is part of a serial essay my father contributed to an aviation journal soon after he came back from Germany, via the USA, on the eve of Hitler's invasion of Poland. My friend named Shohei Shintani was kind enough to manually transcribe the 75-year-old articles for this website. (The letter-count reached 120,000.) We just thought some of you might want to apply your translation aid to the Japanese text provided here to know how a Japanese individual viewed the bilateral relations between Germany and Japan under the Axis Alliance. This has somehow reminded me all anew that one shouldn't speak like a historian unless he is actually in the most despicable occupation on earth. You can't really talk about, let alone live your life like it's history. Another thing I was reminded is that as Gustave Flaubert observed, God is in the details.


The Port of Bergen,
Norway

Ditto

The Yasukuni-maru
anchored in the pier

Japanese evacuees in the
city of Bergen

Curious citizens looking
on the Japanese ship
明くれば8月26日。過去7カ月余を過した懐しいベルリンを去る日である。あわただしい戦塵逃避行の前夜に夢を破られた空征く爆音も未だ耳朶に消えやらぬ午前7時、私は早くも床を蹴っていた。いつもの如く白い浴槽の湯に浸って窓に映る朝の日ざしを眺めていると、昨日迄の私の生活が再び今日も始まるかの如き錯覚すら起るのである。
然し現実は浴みしている内も急ぎ足で、最後の爆発に近づきつつあるのである。朝食もそこそこに残りの書類を整理して、たった一つ残った旅行鞄と手提鞄の中に詰めていると、9時には既に労働戦線のH女史が訪ねて来る。私は数度の見学に一方ならぬ骨を折ってくれた彼女に篤く礼を述べた。それから話は日本人の引揚げの事に入って、彼女は戦争は決して起らないであろうと云う事、日本人の引揚げは独ソ不可侵条約を憤慨している為ではないか等と、繰り返して事情を訊(ただ)すのである。私は日本大使館の勧告に依って引揚げるのである旨を繰返す。日本語の出来る、そして時々は日本語の手紙を寄こした彼女は、一度は日本を訪れる機会があるだろうと、東京での再会を楽しみにしている。彼女の集めてくれた数冊の書籍と、そして見学報告書を受けて、私は彼女と別れた。私は齢50を過ぎたH女史と再び日本で会えるかと些か疑問に思いながら彼女を送出した。彼女はいつもと変わらない少し危げな足取りで、暗いアパートの階段の下に吸われて去ったのである。
10時、私は過去7カ月の間に世話になった人々に挨拶すべく家を出た。ベルリンの街はいつもと変らない表情を見せて、朝の活動は高潮に達していた。
11時、私は再び下宿に戻って、主婦とそして集って来た人とに最後の別れを告げた。同宿の人々は或はイタリアに、或はドイツの国内に旅行中で、果して靖国丸に間に合うかどうかは疑わしい。私は旅行中の友人に預った荷物を主婦に託して、主婦と共に下宿の前のタクシーを拾って、レーアター駅に向った。主婦はハンカチを出して眼を押えている。300人の日本人の世話をして来て、自ら日本人の母と称している彼女にも、斯くの如き突如の引揚げは未だ経験の無い事であったのである。
私は彼女を見るに耐えなかった。瞳を思い出深いベルリンの街路に移すと、重武装をした一隊の兵士が緊張した態度で行進して来るのにあう。平常ベルリンの街を歩いている兵士と云えば銃を持ったものはなかった。日曜に街に出て来る兵士は全てスマートな上質の服をつけて、大半が愛人とのどかな散歩を楽しんでいるのである。それでなければ軍隊輸送車の中に、鉄兜もいかめしくおさまり返って通過ぎて行くのであった。徒歩で銃を持っている部隊は始めてであった。
我々のタクシーはスプレー河をモルトケ橋で渡って、やがてレーアター駅の広場に入った。駅の右手の街路から一隊の屈強な招集兵が、手に手に旅行鞄を一つ宛提げて、二列縦隊で駅の構内に入って行く。中には40を過ぎた人々が多い。何れも黙々としてたくましい眉をあげて、人々の無言の見送りを受けている。
駅の構内は多数の軍人が右往左往して、昨日に変る風景である。切符を求めてプラットフォームに入ると、のどかな平常の風景とおよそ懸離れた情景である。軍服姿の将校を見送る家族、招集を受けた若者を励ます友人で、プラットフォームは混雑を極めている。

荷物を席に収めて再びプラットフォームに出ると、其処にはベルリン工科大学のC君が見送りに来ている。私は彼から借りた書籍を返し、後の事を頼んであわただしい一時を語っていると「アインスタイゲン」の声が掛る。私はC君と主婦とに固い握手を交して、車中の人となった。彼等は再び会う事を確信するが如く「アウフ・ウィーダーゼーエン」と呼び、帽子とハンカチを振っている。私は車の昇降口に立っていつ迄も彼等に答えた。席に帰ると遂に彼等と別れたのだと云う惜別の情が湧上ってくる。
食堂車の中は相変わらずのどかに楽しげである。ミトロパの献立は私を満足させてくれた。本物の珈琲でなくても之が最後と思えば、一入なつかしい思いがする。車窓から眺める田園の風物は一片の雲もない快晴の碧空の下に、地平線の彼方迄のどかに広がっている。
森の裾のエリカは相変わらず淡紅色のしとねを繰拡げているし、ダリヤは家々の前庭に華やかに伸びている。之が戦塵逃避の旅であろうかと自ら疑わざるを得ないのびやかな風光である。
車中で2組の同朋に遇う。1組は生後僅かに3カ月のいたいけな乳児をつれている。何れも顔見知りで、前途に不安を持つ気持は何十年の旧知の如く我々を親しませてしまった。然し此の親しい団欒はやがて現実の問題にぶつかって、我々の不安をかき立てた。此のいたいけな乳児の為のミルクをベルリンに忘れて来た事を母親が発見したのである。ベルリンに電報すべきか、或はハンブルグ到着後購入すべきか。或はベルリンに引き返してミルクを取って来るべきか、我々は判断に迷わざるを得なかったのである。2組の夫婦は特に心を悩まして色々と相談した結果、遂に2時過ぎルドウィッヒスルスト駅から彼等は引返して行ったのである。私達は彼等が無事にミルクを持って再びハンブルグに到着する様に祈った。
実は我々の次の列車は既に大変な混雑であって、座席券のなかった或る者は、列車に乗れないで残されてしまったのであった。我々は云わば第六感で、靖国丸の出帆に間に合うかどうかと心配になったのである。
ルドウィッヒスルスト駅からは愈々戦時色が濃くなって、線路の護衛に立つ突撃隊員の姿が沿道に見えるかと思うと、若い兵士を満載した貨物列車に行きあったりした。彼等は林檎の様に色艶のよい頬に微笑を浮べて、貨車の戸口から我々の列車に手を振っている。何かのんびりした風景である。
3時20分、我々の列車は恙(つつが)なくハンブルグ主駅に到着した。荷物を赤帽に託してタクシーを拾い、直ちに埠頭81番に急がせる。タクシーは例によって便々たるビール腹を抱えた老運転手に依って、ガタガタとハンブルグのうら淋しい郊外の道をエルベ河畔に向って行く。
沿道はどこも彼処(かしこ)も一面に高射砲の陣地で、之が全て擬装されて戦備既に終ったと云う形である。
30分の後、やがてエルベの河面が夕陽に光って見えて来た。81番埠頭には我々を待つ靖国丸が、黒く塗った見覚えのある姿を横付けていた。久し振りに見る故国の船、此処には故国の生活があり、故国の感情があるのだ。そして此の船はあらゆる危険を冒して我々を祖国に運んでくれるのだと思うと、私は不覚にも眼頭が熱くなる思いがしたのである。
舷梯を登れば、祖国の人々は我々をやさしく迎えてくれた。彼等の顔と動作は、彼らが祖国から直接ドイツへ運ばれたのだと云う印象を我々に与えた。事実外国で見る日本人は、何れもどこか外国的の臭いがする。顔も外国化された分子が含まれているのであるが、此の船に見る同朋は全てが日本的であった。私は一度に日本に帰った様な思いで、大きい船に特有な臭いを吸込んで見た。
私は直ちに日本人会から送って貰った荷物を受取り、部屋の割当てを事務室に聞き、次いで船倉に降りてベルリンから送った荷物をたしかめた。既に百人に近い同朋が乗船していた。大部分はベルリン駐在の人々の家族である。そして婦人子供第一主義で部屋が割当てられているから、我々男子は二等の方にまわされている。定められた部屋に降りると、此処は水面から2メートルも離れていない所である。船窓の下に水雷でも流れて来たら忽ち吹飛ばされそうに水は近く見える。
出帆の時刻を聞くと今晩午後9時であるとの事である。明日早朝から明日午前3時となり、午前零時と早まり、遂に今晩9時に変更されたのである。事態は急速に切迫しつつある事がひしひしと感ぜられる。
やがてドイツの税関が船に乗込んで来て、国外持出しのマルク紙幣の検査が始まる。大抵の人は100マルク以上の紙幣を持っているので、之を申告して封筒に収めて、正金銀行員に寄託する事となっている。
やがてハンブルグの港に夕闇が迫って、久し振りに食事の合図が聞える。懐しい日本の食事は前途45日の航海に備えて、まずしい一皿料理であった。そして同朋のみの水入らずの食卓には悲喜交々の感情が流れて、そこに何か一抹の不安な空気を醸し出した。いとしい夫をやがて戦禍に捲込まれるドイツに残す人々は、箸取る手も進まず不安な瞳を震わせているし、単身戦塵を逃れる我々さえも、靖国丸が宣戦布告にならない前に、無事に封鎖網を突破する事を祈っていたのである。
食事を終って私はデッキに出て見た。ハンブルグの町は既に灯が入って、遥かにエルベの河面に華やかな灯影が揺れている。既に靖国丸は出帆の準備に忙しい。淋しい埠頭には僅かの電燈が河風に揺れている。大部分の引揚げ同朋は集結を終って、人々は食後をデッキに出てドイツでの最後の夜を惜しむが如く語合っている。埠頭が一時静寂に帰って、幾人かの見送りの人々が電燈の影に寒い影を落している時、突如まばゆい前照燈の光が埠頭倉庫横からあらわれた。2台の大型バスに同朋と其の荷物が満載されている。一目でM会社の人々と判る。之等の人々は戦争無しと判断して、一時は引揚げを見合したのであるが、情勢刻々に切迫した為にバスを借切って、国営自動車道路を急いで来た人々である。一しきり乗船のざわめきが起った。知った顔も見える。
我々とベルリンから同乗して引返したS婦人と其の愛児は未だ顔を見せない。
9時の出帆は刻々と迫って、遂に見送り人の退船を告げるドラがあわただしく船内をゆすって来る。私は親友Y君と2人、最も高いサン・デッキに上って出帆の情景を眺めていた。我々の下の二つの甲板は引揚げる婦人と子供であふれている。埠頭から見送る夫は愛児の名を呼んで手を振っている。舷梯は上げられた。靖国丸は甲高い汽笛を吹鳴らして、一しきり起る惜別の呼声と共に徐々に埠頭を離れた。埠頭から頑張れと呼ぶ者がいるかと思うと、声を限りに父の名を呼ぶ声も聞える。
かくて靖国丸が約1メートル埠頭から離れた時、再び突如前照燈の光芒が埠頭を明るくして、1台のタクシーがあわただしくすべり込んで来た。船上の人も埠頭の人も、一斉に此の間一髪の瞬間に到着した人に歓呼の声をあげたのである。埠頭の人々は忽ち自動車をかこみ、船上では號笛がなって曳船が停止を命ぜられた。我々にはすぐに途中で引返したS君である事が判った。舷梯は再び下されて、埠頭の人々は舷梯の上に一列に並んで、荷物は手から手へと渡されて忽ち船に運び込まれ、彼の愛児も人々の手から手へ移って行った。上から見ていた我々は同朋愛の美しさに涙が出たのである。S君は夫人を船に上げると舷梯の上に立って「どうもすみませんでした」と一同に感謝して埠頭に戻り、やがてエル・ゼックスの箱を取出して安心した様に一服した。マッチの火に彼の紅潮した顔が照出された。
9時10分、靖国丸は再び曳船に曳かれて埠頭を離れた。エルベの河水を分けて闇の中で旋回して、やがて空を染めているザンクト・パウリの灯の照返しを右に見て、速度を増してエルベを下った。我々は数人の知友と喫煙室の後部のテラスに席を取っていた。私は余りにもあわただしかった今日の出発を思い返して、夜風の中にきらめくハンブルグの灯影を眺めていたのである。陰暦12日の月は空に掛って銀波をゆるがしている。Y君との話はつきない。彼の乗った列車は我々の次の列車であったが、既にダイヤは乱れて座席券がない多数の人が後の列車に残されたと云う事である。我々の出帆は実に時機を誤らなかった様な気がするのである。
エルベの流れを下る事約3時間、午前零時クックスハーフェンの漁港の光を左舷に見て、愈々北海に出る。始めての夜を軽いうねりを感じつつ眠りに入ったのであった。
翌朝眼を覚まして見ると、船は既に昨夜から非常警戒に入っているのを知る。機械水雷の見張りは船首とブリッジの両端に配置されている。船路は陸と大分離れているらしく、終日島影を見ないで北海の蒼茫たる海上を走ったのである。夜は全ての燈火を消してかくれるが如く闇を縫って、一路北へ北へと急ぐのであった。
斯くてハンブルグ出帆後1日半の後、28日の早朝、我々は一先ず危険区域を通過して、ベルゲンのフィヨルドの中に入っていた。嘗てスカンジナビアの旅に飛行機から見た様な岩山が右舷近く迫って、人無きフィヨルドは益々狭まって行く。温度は急に下り、水は寒い色を湛えて、再び北国に来た旅愁が湧くのであった。やがて遠く近く淡霧の中に小島があらわれ、緑や赤に塗った家が岩山の上に見える。
フィヨルドの中を2時間半の旅を終って待望のベルゲンに到着する。船首からは測深錘が入れられて、船は徐航しつつベルゲンの埠頭に着いたのである。 ベルゲンの港は左右に標高350メートルの山をめぐらした良港である。嘗て5月末に、私はスカンジナビアの旅を企ててフォス迄来たのであるが、遂にオスロ・ベルゲン鉄道の終駅たるベルゲンを見る機会を失って残念に思っていたのである。ところがはからずも戦禍を避けてベルゲンを見る事が出来たのは、或る意味で幸運と云ってもよいのである。
我々は昼食をすませて簡単な旅券の検査を受けた後、上陸した。埠頭から歩いて急坂を上り更に下った所がベルゲンのセンターである。此処にはズンド百貨店がある。同朋は期せずして此処に集り、之からの長い航海に備えてタオル、石鹸、歯磨等の日用品を買った。そして4階の食堂に集ったのである。此処では一先ず危険を通過ぎた安心で人々はくつろいで、休息の一時を過したのである。
ベルゲンの町は全てがイギリスの勢力範囲である事を示していた。買物はポンド貨で用が足り、カフェでのボーイにも百貨店の売子にも英語を話せる者がいた。そして物資は豊かで、人々は欧州の風雲をよそに楽しい生活を送っていた。
然し新聞は欧州の風雲益々急を告げた事を知らせ、また靖国丸の入港を大きく取扱っている。避難民130人を乗せている事や、また靖国丸のトン数まで書いていると云う始末である。
ベルゲンの漁港には靖国丸程の大汽船が入る事は如何にも珍しい事である。その為か午後になると靖国丸の繋留された岸壁には多数の市民が見物に来る様になった。彼等は靖国丸の勇姿を岸壁から見上げて去りもやらない。そして我々船客の出入を物珍しげに見物している。我々は大いに心強くなって町を闊歩した。
ベルゲンの港にはイギリスの避難船1隻とノルウェー船3隻が入っているのみで、他は漁船、帆船の類である。
夕食後は皆喫煙室に入ってラジオに聴入る。ダイアルを廻して遂にイギリスとドイツの放送をキャッチする。ヒトラーとヘンダーソンとが会談して時局収拾を行ったのであるが、ヒトラーはポーランドのコリドアと上部シレジアを要求したので、ヘンダーソンは再び本国政府と会議する為イギリスに帰ったと云う放送で、去年のチェコ問題当時を思わせるものがある。
靖国丸はストックホルムの日本公使館から命令のあり次第、直ちに出帆する事となって、船客は午後9時以後上陸禁止となり、また昼間でも汽笛を吹鳴らしたら直ちに帰船すべしと云う事となる。
靖国丸はストックホルムの日本公使館から命令のあり次第、直ちに出帆する事となって、船客は午後9時以後上陸禁止となり、また昼間でも汽笛を吹鳴らしたら直ちに帰船すべしと云う事となる。 · read more (6 words)
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ゲルマン食物談義 - 山本峰雄の「滞欧雑記帳」 (1939) より

ON GERMANIC FOOD
BY Mineo Yamamoto

This is part of a serial essay my father contributed to an aviation journal soon after he came back from Germany, via the USA, on the eve of Hitler's invasion of Poland. My friend named Shohei Shintani was kind enough to manually transcribe the 75-year-old articles for this website. (The letter-count reached 120,000.) We just thought some of you might want to apply your translation aid to the Japanese text provided here to know how a Japanese individual viewed the bilateral relations between Germany and Japan under the Axis Alliance. This has somehow reminded me all anew that one shouldn't speak like a historian unless he is actually in the most despicable occupation on earth.



ベルリン街頭の八百屋
日本では昔から食物の話をする事は、卑しい事と教えられていた。海山の幸豊かな我国では、明治以来の交通機関の発達に依って、事実上国民が飢餓に迫ると云う事は一度も起らなかったのであるから、深刻に食糧問題を考える必要がなかったのは当然である。食物に対する欲望も美味いものを摂る事であって、如何にして食物を手に入れ、一定量の食物から如何にして最大の栄養を摂るかと云う問題ではなかった。人を饗応する時は必要以上の皿数を揃え、客は箸を付けない皿を残すのが礼儀であった。支那事変勃発後一年、未だ我国の食糧問題が今日程やかましい問題にならなかった当時、恵まれた我国を出て、ゲルマンの国に旅装を解くと、其の日から食物の問題が我々の頭を悩まし始めたのである。そして彼等の食物に対する態度を観て、我国のそれと比較して感慨無量なものがあったのである。
ドイツの各地を廻って見ると、其の地味の痩せている事は驚くべきものがある。一望の原野は全て白い砂であって、厚さ数ミリから10数ミリの黒土が之を覆っているに過ぎない。樹木や草は根を下に広げる代わりに横に伸ばしているのである。それでもベルリン附近の湖沼地帯や各河川の沿岸はまだよい方であって、殊にベルリン南方約90キロ附近のスプレーワルトの附近の湖沼地帯は昔から有名な農耕地で、今でも此処ばかりは昔ながらに農業を営み、独特の風俗を遺している。
地味が此の様に痩せている上に、膨大なる軍隊とその背景を護る大規模な工業とが控えていて、労力の不足は著しいものがある。今次の大戦前既に98個師団の常備国防軍を備え、其の外に莫大な数に昇る親衛隊、突撃隊等の党の軍隊がある訳である。重軽工業に従事する人員は1936年に既に795万人に達していた。また1938年のナチス党の統計を見ると、全ドイツの労働者18,045,601人のうち、農業労働者は681,812人に過ぎない状態であって、1938年には12万人の農業労働者を外国から入れている状況である。之等の数字はドイツの食糧問題を雄弁に物語っているものである。ナチス政権樹立直後から行われた第1次四カ年計画に、其の主要目標として失業者救済と共に農村復興が取上げられ、第2次四カ年計画の主題目たる国防工業振興の基礎を据える事が計画されたのは当然であり、また農産物特に麦の収穫時はヒトラーユーゲント、軍隊及び有志者が農夫の手伝いに出る原因をも諒解する事が出来るであろう。
斯くしてドイツはナチス政権樹立以来鋭意農村復興、労働奉仕団に依る荒蕪地開拓、食糧生産工業の振興、漁業の奨励を行ったのであるが、然かも今日でも其の食糧問題は仲々重大なものである。 1937年ドイツは食糧品のみ20億4500万マルク大量を輸入し、中でも植物性食料品は11億3500万マルクを輸入しているのである。此の数字は全商品の輸入額の37.4パーセント及び20.7パーセントに相当するものである。
ドイツがバルカン、ポーランド、デンマーク、オランダ、フランス等に伸びて行く一つの原因は、石油や鉄鉱、ボーキサイトの資源を求める事も重要な原因ではあるが、其の食糧問題解決の為でもあろう。ドイツの周囲に張り巡らされた包囲陣を突破して其の目的を達する為には、厖大な航空工業が必要となって来たのである。而して其の厖大な所謂生活圏(Lebenstraum)を守る為に更に大なる軍隊と工業力を必要とし、之が更に大量の軍需資源と食糧を必要とするのである。斯くして伸びる国家は外に向って発展して止まないのであろう。
私が一昨年の11月の末、ドイツの冬も酣(たけなわ)とならんとするベルリンにドイツの第一歩を印した時は、此の北国には、冬のたくましく冷厳な息吹がすさんでいた。木々の葉は落ちて、一望蕭條(しょうじょう)たるベルリンには、既に生の野菜の一葉も見られなかった。僅かに赤い茎と黄色い葉を持った蕗に似たRhabarberの束が、八百屋の軒に凋(しお)れた姿を曝していたのである。八百屋の平たい桶の中には、黄色い皮膚の上に虫食いの斑点のある枇杷の実位の大きさのリンゴが、わびしく飾られていた。此の憐れむべき果物がリンゴである事を知ったのは、大分後の事であった。此の二つの生野菜は、何れも其の儘食べられない事は言う迄もない。苦味のあるラバルベルは砂糖で煮てKompottとし、リンゴはおろしでおろして、果物の代りに食後に食べるのである。
レストランに行って野菜サラダを注文すると、生サラダの代りに、必ずインゲン豆とセロリの酢漬けが運ばれて来た。
冬の最中にコロラドのセロリや、カリフォルニアのメロンを楽しめるアメリカからドイツに入った私は、こんな状態で果して健康が保たれるかどうかを危み、昔山の中のスキー宿に越冬して壊血病で死んで行った後輩の事等を思い浮べて暗い気持になり、冬になっても山東白菜や胡瓜等の生物が食べられる母国を思起して、其の天恵の豊かな事に感謝せずにはいられなかったのである。
然し長い此の様な忍従の冬が終って、春がきざして先ずイタリアやオランダやバルカン方面から野菜や果物が入る頃になると、全く蘇生の思いがするのである。五月に入ると天地の春と共にホウレン草の走りがバルカン方面から市場に表われ、ハンガリーやオランダからは夫々サラダ菜とチシャが齎(もたら)され、更にオランダからは廿日大根と胡瓜が運ばれる。イタリアからは桜桃が華やかな姿を現して、長い冬をバナナで過した果物党を喜ばすのである。斯くしてドイツ産のアスパラガス、ホウレン草、アブラ菜等が砂地に育った清潔な味覚をそそるのである。五月も末となるとスモモや巴(は)旦(たん)杏(きょう)(トガリスモモ)が現れ、次いでドイツの桜桃や苺が顔を出し、八百屋の店頭は華やかさを加え、街頭に屋台店を出している果物屋も其の数を増して来る。桜桃の実る並木道をドライブして、桜桃を口に五月の風を切って緑の平野を走るのも独特の楽しみであるし、ビアホールに五月大根(Mai-Rettich)の味覚を楽しむのも興趣の深いものである。葉ごとに土を付けた五月大根を、テーブルを縫って売歩く少女から求めて皮を剥き、薄く切って鹽(しお)を振り水が出るのを待つ間も五月の野菜は楽しめるものである。之がビールのほろ苦さと調和する時、バイエルの春を想起させるのである。 苺はドイツのものは地味の痩せた為か余り大粒ではないし、味も感心しないが、然かも高級な果物に属するのである。日本の苺の大きさと艶は、ドイツ人を驚倒させずにはおかないであろう。苺(Erdbeere)の代りに大衆的のBeereとしては、すぐり(Stachelbeere)、えぞいちご(Himmbeere)、あかすぐり(Johannisbeere)、くろまめの果(Blaubeere)等とおよそ大部分の日本人の口には合わないげて物が存在する。我々は子供の時代からすぐりはおもちゃにして遊ぶ果実であると思いならわされているし、くろまめの果やあかすぐり等は日本の都会の人は見た事もないであろう。食べると口中紫色になるくろまめの果等は特に有難くないものである。森の民族ゲルマンの異色ある特徴が之等のBeereに表われている様である。然しアメリカ等でも之等の愛すべき小粒のBeereは、若い人達の一部に人気があるそうであるから、北国の果実として古くから人類に親しまれた者共であるかも知れない。
春になるとApfelsineもイタリアやスペインからドイツの市場に頻繁に顔を出す。上質品はシリア当りから遥々地中海、大西洋、北海を渡ってドイツに運ばれるらしいが、之等は市場には姿を現さない。Apfelsineはドイツ語の辞書には「くねんぼ」と訳されているが、日本のくねんぼでは無くて全くオレンジの一種である。然かもBlutapfelsineと称する内容の赤いものもあって我々には珍しい。
森の民族ゲルマンがあらゆる野草とその果を色々な形で食用に供しているにも拘らず、ドイツの森の中に多い蕨(わらび)を食用する方法を知らないのは一寸不思議である。此の点では我々は一枚上である。
ドイツの秋の果物としてはリンゴがあるが、之は其の香りと味覚と大きさに於て日本や満州のものと比較すべくもない。イタリア、南仏、スペイン、アフリカに産するミカンもドイツ迄は仲々行渡らない。たとえドイツ迄来たとしても種子の多いミカンは本場の日本人の口には合わないのだ。日本から苗を移植したものとしては此の外にKaki(柿)がある。ドイツには入らないからドイツ人は其の存在すら知らない。 ジャガイモは四季を通じてドイツの食卓には欠くべからざる食物であり、我々の米に相当するものである事は誰でも知っている事である。貴賎を問わない此の食物は、ドイツの気候と地味に適している様である。5,6月の交(変わり目)には新ジャガイモがドイツ人を喜ばせる。大きな器に盛られて食卓をまわされるSchwenk-kartoffel等に味覚を感ずる様になれば、永久にジャガイモは嫌いにならないであろう。 ドイツの材料で野菜以上に貧弱なものは魚である。不味いせいもあるし、魚の料理法を知らない事もあるが、一般に魚を好まない。政府は食糧問題解決の一助として魚を食べる事を推奨している。日本で言う所謂「文化映画」によって漁業の実況を映し、魚の化学的成分と栄養を紹介している。此の映画に依ると世界中で最も魚を食べる国民は言う迄も無く日本であって1年1人当たり52キロ余、次はイギリスであって25キロ、之に反してドイツは12.5キロに過ぎない。然かも海の幸は無尽蔵であり、その栄養も多いと云うのであるが、日本の魚は味に於て、栄養に於て遥かに北海の魚に比して優れていると言う重要な点は説明が抜けていた。
淡水産の魚としてドイツの食膳に最も普通に上るものは、云う迄も無く鯉である。ベルリン近傍からマルク、ボンメルンの地方の湖沼地には鯉は無尽蔵である。日本と同様鯉はガラス張りの箱の中に生かしてある。魚を専門に販売している店は無いが、肉屋や食料品店にいつでも置いてあるのは鯉である。フランスに行くと鯉は高級な魚であるらしいが、ドイツでは余り多過ぎて人にも珍重されない。淡水産の魚で鯉と共によく引合いに出されるのはヘヒト(Hecht)である。「鯉の中のヘヒト」等と云う諺もある。鯉と共にドイツの太公望狙われる魚である。鰻もドイツの湖沼地に多いが、料理の方法は鯉やヘヒトと同様に油で揚げるか、或はAal grunと称してボイルしてマヨネーズで味わう。蒲焼等と云う天下一品の料理法を知っているものは1人もいない。
山間には鱒(ます)がとれる。ラインの上流マジノ線の附近の渓流等には鱒が多い。変ったものとしてはザリガニ(Krebse)が賞味される。形から云っても我々には好意が持てない。 海の魚は舌鰈(Seezunge)や赤舌鰈(Rotzunge)が最も愛好される。日本の舌平目と同じ様な形をしている。之等はから揚げに限られているが、我々にも之なら満足出来る。先ずドイツの魚の王者と考えてよいだろう。鰈(Steinbutt)もドイツでは珍重されているが、北海道の大物の鰈と同じく大味である。北国の魚らしいものはオランダのニシン、東海の鱈(Dorsch)、アイスランドで取れる鮭、鱈(Kabeljan)から、Schellfisch(鱈の一種)、Bratschollen(ヒラメ)Blei(鯛の一種)等が北海から東海から、或はアイスランドから入って来る。
スズキの類はRotbarschと云う海産のものは五月の魚として都会に入って来る。ボーデン湖にもBarschが取れる。ところでBarschと云う字は不味と云う事だから、日本産のスズキ等を考えたら大違いであろう。
其の他ドイツの魚としてはとげうお(Zauder)、鰈の一種Scholle等も普通のものである。
イセエビやテナガエビ等と云うものはドイツでは最も高級なもので、一流のレストランに行かなくては姿もおがめない。捕鯨は最近ドイツが盛んに捕鯨船を作って、南氷洋に進出し始めたのであるが、之は食料問題と云うよりも、石鹸等を作る油脂原料を獲るのが目的である。
魚が一般に不味くて国民の間に其の調理法の知識が欠けている為に魚の需要が少ないので、大部分の魚は魚粉と化して貯蔵して不時に備えられるのである。
鶏卵はバターや珈琲と共に、ドイツの日常生活に最も不足している食糧品である。ベルリン等では一週間に2個の鶏卵が手に入ればよい方である。之もドイツ産はA,B,C等の品種に区別され、外国産はルーマニア、デンマーク等から入る。何れも一つ一つの卵に丁寧に印が押してあって、一目して判る様になっている。「私の家には卵が20個ある」等と云って人に自慢するのも、笑えない実話である。然し田舎に行くと、至る所に鶏が飼ってあって鶏卵は豊富である。片田舎のレストラン等で食事をすると、スープには鶏卵を二つも落してある。こう云う田舎では他の物資も豊富である。春のきざし始める頃の復活祭のお祭りには、鶏卵はつきものである。赤く色をつけた卵を部屋の中にかくして、子供は之を探すのに大童である。復活祭の菓子等も卵の形をしたものが多い。此の頃に白樺が芽を出して佐保姫(春の女神)の駕近きを思わせるのだ。田舎では門口に新芽の出たばかりの白樺の枝を立てる。ドイツの子供は復活祭と云えば卵を思い出すのである。
魚と違ってドイツの肉類は、其の種類が豊富であり、其の利用法も徹底している。ドイツの原野には野生の鹿や兎が実に豊富である。森の近くに自動車を止めて休んでいると鹿に会う事もあるし、夜は自動車道路に鹿の眼が碧く光っているのを屢(しばしば)見かける。自動車道路の標識に緑地に白く鹿の形を書いて、其の下に500メートルと書いてあれば、500メートル先に鹿の通う路がある事を示しているのだ。
此の標識が実に多い。野猪の通路にも同じ様な標識が立っている。野兎はベルリンの郊外に行けば至る所に姿を見かける。之等の可憐な動物がよく保護されている事は美しい限りである。
然し冬になると一定量を捕獲するらしく、鹿や兎や時には猪が肉屋の店頭を飾っているのは壮観でもあるし、心強くもあり、師走の東京の山鯨を思い出すのである。ポツダムの鹿料理等、通のかよう料理である。之等の野獣(Wild)の外に、野鳥はガチョウ、鴨等ドイツの特産であって、旅人の味覚をそそるものである。鶏料理は敢て他奇はない。ミルクで飼った肥育雌鶏を葡萄の枝で炙ると云う、フランスの様な雅致のある料理は無いが、ガラスの円筒形の箱の中央に立てた金串に雛鳥をさして、階段的に温度を調整する自動電熱装置で炙るドイツ式のやり方がある。
ソーセージ(Wurst)に至ってはドイツの独壇場であって、其の種類の豊富な事と味のよい事は、他の追随を許さないものがある。我々にもなじみの深いウインナー・ソーセージの様なものからBock-wurst,Dampfwurst,さてはニュルンベルガー、レーゲンスブルガー等産地の名を冠したものから、農家手製のソーセージ迄多種多様で一々挙げる遑(いとま)もない程である。ビールとソーセージ等と連想するのはソーセージの効用を知らないもので、Kaltespeise(冷食)にはチーズと共にソーセージはつきものである。百貨店にもソーセージ部があって此処ばかりは豪華な陣容を誇っている。
ハムは煮沸ハムの他に生ハム(roher Schinken)はドイツの特産であって、アスパラガスとの取合せで、アスパラガスの出始める頃にはドイツ特選料理の部に加えられる。豚の爪の酢漬け、酢漬けキャベツ(Sauerkraut)等割合によく知られたドイツの食物の話は抜きにして、今度は薬味(Kraut)の話をしよう。
ドイツの家庭の台所には必ず薬味を入れる陶器製の壺が大抵6個一組になって、箱に入って壁に取り付けられている。それ程薬味と料理とはよく結びついている。月桂樹の葉(Lorberblatt)は肉を料理する時は必ず入れる。豚の焼肉にはNelkenを、肉桂(Zimmt)はミルクや米飯に、肉荳蒄(にくづく)(Muskat)は馬鈴薯等に、葛縷子(カルシ)(Kummel)はキャベツに、丁香の実(Gewurzkerne)は肉や魚の料理に、パプリカ(Paprika)は牛肉やドイツ特有のグーラシュの料理に、更にガチョウ焼肉にはタケジャコウソウ(Thymian)を入れる。また以上の様に乾燥した薬味でなく、生のままの草としては洋芹(Petersilie)をサラダや魚に加える。更に蒔蘿(イノンド)(Dill)は生サラダや胡瓜サラダに加え、またザリガニ等の臭みを抜くのに之を加えて茹でる事は、藤原銀次郎氏の「実業人の気持」の中に見えている通りである。またルリヂサ(Boretsch)は胡瓜サラダに、ヤマヨモギ(Beifuss)や玟欄(マジョラム)(Majoran)は再びガチョウの料理に加えられシャク(Kerbel)はスープの味を出すと云った具合である。気のきかない女をつかまえてdumme Gaus(馬鹿なガチョウ)等と云うが、ドイツのガチョウ料理は仲々丁重な取扱いを受けている。之等の薬味のある物は日本でも薬屋で売っている程であるから、高級な西洋料理屋や味覚を追う人々の中には、既に充分知っておられる人もあろう。
飲料の方はリンゴ汁や各種の鉱泉水が下戸の飲料として楽しまれているが、上戸の飲料は実に豊富である。ミュンヘンビールやピルスナービールは今更云う迄もないが、之等にも勿論種類が多く、またドイツの各地至る所にビールの醸造所がある。三月に醸造するメルツビーヤ(Marzbier)、アルコール分の強いミュンヘンのボックビーヤ(Bockbier)等はビールの中でも上戸の好むものである。大都市から片田舎迄至る所の数知れないビアホールは、酒を飲んで楽しむ所であると同時に大衆的社交場でもある。音楽に合せて隣席同志腕を組んで民謡を歌う風景は実にほほえましい。これがミュンヘンのホーフグロイの大ホール等では特に壮観であるが、比較的小さな所でもまた其処に楽しい気分が醸し出される。客の中でピアノに自信のある婦人はキイに向って自ら民謡を弾いて聞かせ、最後には客の合唱の伴奏をやり一同の歓呼をあびて満足するのである。而して決して深く酔ってしまう事はない。 葡萄酒は辛口のモーゼル、甘口のライン等があって、フランスの葡萄酒とは異なった風味である。矢張り年によって出来、不出来があるから醸造の年を見て注文する。葡萄酒専門のレストランは、Weinstubeであって此処はビアホールと違って一段と高尚な客が集り、古典音楽を聴いてゆっくり琥珀の酒を楽しむ。
然し最も森の民族ゲルマンの情緒をしのぶ酒は各種のボーレ(Bowle)であろう。ボーレの最も普通の物は五月ボーレ(Maiboule)であって透明な甘い此の酒は五月の景物である。ドイツの森に咲く可憐なクルマバソウで作ったクルマバ草ボーレ(Waldmeisterbowle)やヘビイチゴボーレ(Walderdbeerenbowle)は野趣満々たるものがある。桃ボーレ(Phirsichbowle)になると魅力が薄いが、パイナップルボーレ(Ananasbowle)になると、いかものたるを免れない。ボーレは何れも以上の材料から作った酒に砂糖と炭酸水を加えた飲料である。
此の外にバイエル附近の山の草で作ったシュナップス(Schnaps)と云う火酒や桜桃の実で作ったキルシュワッサー(Kirschwasser)は強い酒の部である。キルシュワッサーは食後の珈琲の後で飲むのが宴会等の例である。
其の他卵黄で作ったリキュール等数々の酒があって、此の方面は仲々盛んである。 最後にバターとパンと珈琲が残った訳である。バターは満州大豆から作ったマーガリンが其の大部分を占めているが、稀には農家自製の白い半透明のBauerbutterが手に入る。見かけに依らず味は上々である。ドイツ人は一般に我々に比して多量のバターを消費するが、愈々バターが足りなければ豚油をパンに塗りつけるのである。1週間1人当り125グラムの切符制は戦争前からの話で、バターの獲得には仲々骨を折る。外国に旅行した時にバターをお土産にすると、受けた方の喜び方は筆紙に尽し難い。パンは質が悪いが不自由はしていない。
珈琲は紅毛人が欠くべからざる飲料であって、軍隊では士気を鼓舞するのに絶対必要である。之もドイツでは1週間1人当り50グラムに制限され、一般には豆が入っている珈琲を飲まされている。珈琲を楽しんで飲む事はパリ辺りと全く同じで、カフェのテラス等一杯の珈琲を2時間も楽しんで外を眺めている人もいるそうである。どうやら出揃った様であるから此の位でゲルマン食物談義を終る事としよう。ドイツ人は食物等は問題ではないとよく云っているし、また書いている。我々美食にならされた日本人も早く其の位の意気になりたいものである、と考えるのは筆者のみではあるまい。 · read more (11 words)